【プロフィール】
阪口 弘之(さかぐち ひろゆき)
1943 年、滋賀県生まれ。大阪市立大学大学院博士課程単位取得退学。大阪市立大学教授、神戸女子大学教授を経て、現在、両大学名誉教授。ハンブルク大学客員教授、21 世紀COEプログラム(都市文化創造のための人文科学的研究)拠点リーダー等を歴任。博士(文学)。著書に、『古浄瑠璃正本集』第七~第十(角川書店、共編)、『古浄瑠璃 説経集』(岩波書店、共編)、『近松門左衛門集』1~3(小学館、共校注・訳)他。
阪口弘之先生 神戸女子大学名誉教授
大阪市立大学名誉教授
話し手:阪口弘之 先生
聞き手:吉野国夫(常務理事)
吉野:本日は、ご多忙中お運び頂きましてありがとうございます。私共が 2018 年以来取組んでいます「上町台地アートプロジェクト」の一環で、昨年 10 月に「上町台地芸術フォーラム 2022」を実施しました。
丁度、聖徳太子 1400 年忌の節目でもあったので、上町台地の古代史に焦点を当てた活動の締めくくりとして「現代アートと最先端科学」の国際シンポジウムを開催しました。今年からは中世にテーマを移し、「中世の信仰と芸能」を取り上げています。昨年、「古浄瑠璃・説経研究」(和泉書院刊)※で、第 43 回角川源義賞を受賞され、街道筋を舞台に広められてきた中世の語り物を深く総合的に論じられ、大いに感動したところです。
本日は上町台地に関わりのある街道や説経の話題についてお話を頂ければと思います。
※説経とは語り物。説経浄瑠璃、説経節ともいう。鎌倉末から室町初期のころ仏教界の説教から派生した民間芸能。『かるかや』『三荘太夫』『しんとく丸』『梵天国』『小栗判官』が五説経と言われています。
阪口:わかりました。古代から中世になると、大阪は京の都と高野山や熊野、さらには東国・西国との往来の通過点となり、ややもすると存在感が薄れてきたように言われますが、難波津以来の水上交通の大拠点、渡辺津があり、四天王寺、住吉も大きな存在感を持っていました。そのあたりが十分に知られていないだけです。
古代、太陽の東西軸から、中世南北軸の時代へ
吉野:実は私共のプロジェクトのスタートは、2017 年に人類学者の中沢新一さんをお招きした「上町台地の歴史と未来展望」(於:四天王寺)というシンポジウムが契機となりました。氏は「太陽の都・大阪」と題し、伊勢-大和―生駒山―天王寺―路島(舟木)-瀬戸内海という太陽の運行と東西軸の重要性を指摘されましたが、中世になって、都が京都に移ると南北軸が表舞台になってきます。
阪口:東西軸と南北軸とは大変面白い観点ですね。上町台地自体が南北軸ですが、芸能という点からいうと四天王寺の存在が大きいです。
四天王寺は寺院でありながら鳥居がありますが、神仏習合を持ち込んだのが増誉です。
彼は熊野三山検校から四天王寺に来て、冠木門、西門をつくった。
その後、叡尊と忍性が出てきますので、この3人が非常に大きな存在だったと思います。
それまでの寺門や山門という京都の支配から独立し、叡尊や弟子の忍性の時代になりますと、四天王寺の立つ位置が少し変わってきました。それまで貴族だけが対象であったところに庶民の念仏信仰が持ち込まれて、それが西門信仰につながってきたのです。
その中で俊徳丸(しんとく丸)の話や石の鳥居の山椒大夫の話が生まれてきます。
芸能の話の中心的なものが四天王寺の宗教的な広がりとも絡み、貴であった世界に、俗や賤の信仰が加わります。つまり貴と賤の混融という問題が出てきます。
石の鳥居
吉野:中世の四天王寺は、今の境内というよりは、それこそ今宮戎や四天王寺七村のあるところも含めた広い範囲でまちがあったと言われています。
経済史の原田伴彦先生のご本によると中世の日本の都市人口が最も多いのは京都で 10 万人、第 2 位が天王寺で3万5千人(7千戸)。その後、時代は下りますが、近くの本願寺にも1万人いました。
中世の天王寺周辺には少なくとも3~4万人の都市があり、生活があったのではないか、単なる観光の門前町ではなく、交易や産業の基盤がある大都市であった。と勝手ながら想像しています。
実は南門に熊野の遥拝所があり、そこで南北軸を意識したのです。
阪口:それをつくったのが増誉です。南大門の内側です。南北軸が明確に意識されていると思います。
後に熊野九十九王子の第 1 王子である渡辺王子が大江の岸から四天王寺の西門の鳥居前に移されますが、これはやはり四天王寺が特別な場所であったからでしょう。それが説経世界にも反映されていくのです。
吉野:中世の芸能と信仰については街道が大きな意味を持っていると思います。道行とも 関連しますが、説経節は街道あるいは寺社を経由して普及していったのでしょうか。
阪口:叡尊や忍性は西大寺から出ています。八尾の教興寺や高安の挽道場(14 世紀初七世 法明上人の念仏共同体の道場)も、彼らの活動拠点としてあったところで、そういう宗教的な場所が物語の舞台や道行文によみこまれています。信仰に根ざした芸能 が街道筋にかかわっていたのです。
吉野:四天王寺から鶴橋、高安に向けて俊徳道という街道が今も使われていて、俊徳道駅 もあります。実は昨年のシンポジウムのときに文楽の豊竹呂太夫さんに「摂州合邦辻のさわり」を演じて頂きました。米国在住の写真家、兼子裕代さんを招き「フォ トめくり俊徳道」という俊徳道を歩いて作品制作する写真ワークショップを開催しました。
阪口:それはおもしろい試みですね。説経の「しんとく丸」には、四天王寺と河内や和泉 を結ぶように語られてきた四天王寺伝承があります。具体的には高安―平野大念仏 寺―四天王寺―近木の荘(貝塚市)―熊野を、あるいは四天王寺と能勢や瀬田など、四天王寺の荘園とも絡みながら、聖地や街道要衝を結ぶように活動した律宗や融通 念仏の人々が伝えてきた伝承が下敷きになっています。
吉野:なるほど、俊徳丸(しんとく丸)も東西の道行を経て四天王寺が拠点となり南北軸 に移動するのですね。
古代、太陽の東西軸から、中世南北軸の時代へ
阪口:「しんとく丸」だけでなく「山椒大夫」もまさに四天王寺が重要舞台の一つとしてあ ります。熊野詣の王子社も同じような役割をもって出てきます。「しんとく丸」では、 貝塚の近木庄も地蔵信仰とも関わって舞台となっています。
四天王寺というと、「しんとく丸」で重要な役割をになう「仲光」という人物が出 てきます。仲光は源満仲の第一の家来です。満仲の拠点は多田ですが、有馬、能勢 の辺りも四天王寺領でつながっています。中山寺もそうです。四天王寺東方に展開 する寺領荘園である高安―大念仏寺―四天王寺と、その意味で同じ位置づけになり ます。忍性らが、鎌倉幕府の後押しを受けて、鎌倉の極楽寺と同じように、多田も 殺生禁断の地にしました。この多田は、酒吞童子の話(大江山の鬼神退治)で知ら れ、今も源氏まつりがあります。ここが多田源氏の出発点で、そこが四天王寺領と してもあり、そうした背景の中で、多田満仲の郎党である仲光が、四天王寺の物語 である「しんとく丸」で重要な役割を呈しているということです。
吉野:中世の大阪は四天王寺の信仰がベースとなって、それが物語の舞台になっていった。 そういうことですね。
阪口:それを布教していったのが融通念仏、大阪では平野の大念仏寺が有名ですが、その 教えが庶民に広がっていったと思います。石の鳥居の信仰もそれとかかわっていま す。この石の鳥居は忍性がつくっています。鳥居の扁額「当極楽土東門中心」(ここ が極楽の東門の中心である)は宝塚の中山寺の名前にもつながっています。中山寺 は昔の西国三十三所の1番札所です。今は熊野に変わっていますが、極楽の中心に あたるという忍性の教えですね。中山寺は聖徳太子の創建で、四天王寺も中山寺も 教興寺もほとんど同じ時代に建立されています。聖徳太子を追慕賛嘆するというの が四天王寺信仰です。四天王寺には3つ信仰があって、舎利信仰(金堂)、太子信仰 (聖霊院)、もう1つ出てきたのが浄土信仰(西門)のいわゆる念仏信仰です。その 念仏信仰の時代に芸能的な広がりが出ました。
吉野:そうすると、小栗にしても山椒大夫にしても3番目の念仏信仰とつながって盛んに なっていったのですね。
阪口:そうです。そもそもあの物語ができたのは叡尊、忍性の時代です。増誉が鳥居を立 てるのが 1094 年、1294 年に忍性が木造から石造に直します。四天王寺信仰はその 支持基盤を貴族から次第に庶民層へ拡大し、ここを舞台とする芸能は、この念仏信 仰の拡がりと共に語りだされた物語です。例えば石の鳥居は、物語主人公達の「蘇 生復活の奇瑞の場」として大変重要な位置にあります。「山椒太夫」でも今まで土車 で送られてきた者が石の鳥居に取りついて「えいやっ」と言うと足腰が立つ。
吉野:石の鳥居には信徳丸と乙姫と出会うところなど、出会わせる力もあります。
阪口:それが四天王寺で、初めて見染めるところが石の舞台。石舞台は四天王寺舞楽が有 名ですが、当時は京都と南都と天王寺に舞楽があり、天王寺舞楽は京都側からは格 下の感じでとらえられていた。叡尊の時代に格を上げようとして、今まで伝承されていないものを教えてくれという形で持っていきましたが、反発されました。それに対して、ああいう物語を作り上げたのだと思います。
吉野:なるほど、実は四天王寺に聖徳太子御作伝承のある「京不見の笛」があり、すごく 良い笛なので、京都の朝廷がどうしても見せてくれと。言ったそうです。実際持っていくと、笛は壊れて音が出なくなっていて返された。こちらに戻ってきたら元に戻って音が鳴ったという伝承があって、四天王寺大学の南谷美保先生から聞いた事があります。
阪口:弘法大師の横笛の話も今の話とよく似ています。弘法大師が唐からさらに天竺まで行って文殊菩薩と出会ったという話があります。その地から竹を日本に向けて投げ たら、それが流れ着いたのが香川の志渡の浦、弘法大師の故郷ですが、不思議に思 ってそれを3つに切ると、妙音を出したと。その1つが青葉の笛です。 3本の竹は高野山と東寺と善通寺に伝わるいわゆる三鈷伝説の変形で、これも南北 軸の話とかかわってきます。といいますのも、この物語は、京と高野山を結んだ東 高野街道(生駒山の西麓を南北にまっすぐに延びる)を往還した高野聖によって語 り拡められました。
吉野:念仏信仰、あるいは石の鳥居、それらが持っていた場の力みたいなものが説経節 り、例えば小栗の中でそこが1つの舞台になったのは、信仰と絡んでどんな理由が あるのですか。
阪口:説経自体、足が立たない、障害があるなど、社会から忘れ去られた人たちが主人公 として多いですが、そういう人たちも救われる。それを語る説教者自体も、いわれ なき差別を受けていましたが、その人たちも救われるという信仰。救い救われる。 救う人は叡尊や忍性らの教えに傾いた人たち。救われる人たちも同じような側面を 持っていた。 そこの点で物語が語られていった。支持されたと思います。土車というのは、要するに足が動かない人たちの移動具で、そういう人々が四天王寺周辺に寄集しました。救いを四天王寺の浄土信仰に求めたと思います。
救い手の思いがリレーされ街道をゆく
吉野:なるほど、最後に街道と道行についてお教えください。素人考えでは、今の鉄道と同じで、駅があって、鉄道に乗って目的地を結ぶ道というイメージですが、道の移動自体に意味があるようにも思えます。移動が鉄道のように手段である現代と自分の足で歩く移動の意味は違うように思います。まちや寺社などの聖地を巡るという行為は同じでも、そこをどのように移動するかが大問題です。
阪口:例えば「小栗判官」では餓鬼のような姿になってこの世に蘇ってきた小栗に対し、時宗の藤沢お上人が「餓鬼阿弥陀仏」と書いた木札に「この者の乗る車を一回引けば千人の僧を集めて経を上げるのと同じ供養、二回引けば万人の僧・・・」とご利益を書き足して熊野本宮に向けて街道を引かせました。その思いを恋人の照手姫が引継ぎ、更に名もなき人々や山伏が引き継いでいきます。その道には時宗の拠点がネットワークのようにつながっています。大阪では、その道を後に「小栗街道」と読んでいます。
土車に引かれる餓鬼阿弥
宮内庁岩佐又兵衛絵巻 第 13 巻 24 段四天王寺前
「道行」は主人公が道を行くということです。そういう形で物語が展開されるので すが、道行く街道は宗教的な救済の場所を繋ぐように続いています。宗祖など、自分たちの信じる聖(ひじり)達がたどった道をたどっていくという形で物語が共有化されます。
道行は、街道をただ歩くということではない。とどまったところ、舞台になった ところは、もちろん名所旧跡もありますが、物語として強調されるのは宗祖が活動 した拠点、そこに宗教的な救いの場があったというように物語が展開するのです。
吉野:道行は、結果的にそういう場所が街道筋に織り込まれているのですね
阪口:例えば「しんとく丸」では「道行く」ことで乙姫はしんとく丸との対面が実現しま す。こうして説経では、「再会・蘇生」「再会・開眼」譚などで物語が収斂して完結 します。物語舞台が街道筋を次々と移動するなかで、救い救われる物語として、救いの手が差し伸べられる街道筋。その場は次々と救い手の思いがリレーされていく 地であり、説経という物語は、救い手たちが主人公に寄り添いながら「救済の思い をリレーしていく旅の物語」とも言えましょう。そのリレーの場所は宗祖らの信仰 拠点、聖俗寄集の地であったと思います。小栗はその最も端的な例で、閻魔大王がいう藤沢のお上人は「時宗当麻道場二十七世の明堂智光」をさすテキスト(絵巻) もあり、遊行寺(藤沢市)、関寺(大津市)、熊野湯の峰も時宗の信仰拠点として栄 えたところです。
吉野:今、思いついたのですが、道行は、物語上では主人公が苦労して行く。そこに象徴 されていますが、庶民から見たら、自分もそこに行って救われたい。今の観光ツア ーではないが、そこに行って追体験をする。という事はあるのでしょうか?
阪口:確かに、そういう気持ちにもなるかもしれません。そういう場所が選ばれているの でしょう。四天王寺の宗教的な意識が薄れていくと、なぜ、つし王(「山椒大夫」主人公)は四天王寺にわざわざ来なければいけないのかという問い直しもみられます。 本来は石の鳥居の奇瑞を描くための作品です。しかし、つし王にとっては、父の無 罪を帝に訴えるのが目的ですから、都への入口である七条朱雀権現堂の辺りで、そ のまま帝のもとに行けばいいわけですが、わざわざ土車に乗せて四天王寺まで引っ 張ってきて、四天王寺で足腰が立ったと語るのです。 ところが、江戸期には、テキストによりますが、四天王寺までわざわざ来ずにそのまま京都の北野へまいります。北野神社が四天王寺にとってかわっています。説教 師たちもそこに多く集まりました。
土車で運ばれていくということは「道を行く」、つまり「道行」ということだと思います。前にも言いましたが、やはり説経は道を行く物語だと思います。物語全体 が道を行く物語です。道を行くということは、とりもなおさず宗祖たちの活動した 後を慕っていくという事です。物語全体がそういう形になっていると思います。
吉野:中世の街道を時宗念仏衆や高野聖が東西南北に駆け巡り、同じ街道を説経節の語り 手も流浪する中で宗教者とふれあい、芸能として成立していく過程にあったという事でしょうね。中世はまさに信仰と芸能が未分化であった時代と理解しました。本日はどうもありがとうございました。