【プロフィール】
大澤 研一(おおさわ けんいち)
1962年岩手県生まれ。85年大阪市立大学卒業、86年同大学前期博士課程中退、大阪市立博物館の学芸員に。企画広報課長、学芸課長などを経て、2019年副館長に。2020年館長に就任。専門は日本中世史・大阪地域史。主な著書 『戦国織豊期大坂の都市史的研究』思文閣出版(2019)他
大澤研一館長 大阪歴史博物館長
大阪市立大学名誉教授
話し手:大澤研一 館長
聞き手:吉野国夫(常務理事)
吉野:本日はありがとうございます。大澤様とは2018年に私が事務局をしている㈶大阪地域振興調査会の研究会(聖徳太子往来の道研究会@近畿地方整備局)でご一緒して以来ですね。聖徳太子1400年忌を経て、本号では、大阪の歴史で最も知られていない「中世」に焦点を当てています。まず、コロナ禍がようやく収束してきましたが、最近の博物館のトピックスなど、お教えいただけませんでしょうか?
1. 博物館の最新事情
大澤:館としては、コロナで以前に比べると大きな企画はやりにくくなってきたので、かつては大きな企画に隠れてしまったような、逆に手元にあるものを再構成して示していく、そうした企画ができる良い機会になりました。今まで蓄積してきたものを活用して新しい魅力を訴えていく。そこに力を入れいるところです。地味ではありますが、よくよく見ると現代にも通じるデザインなど、若い世代にも人気がある。
吉野:そういう打ち出し方はこれまでの歴博のイメージとは違いますね。
大澤:博物館としては、年配の方を想定した展示が多くなりがちですが、「印判手」展では逆に若い層にターゲットを設定しました。これまでの事業の組み立て方や考え方を振り返り、違う視点で考えるきっかけをコロナのタイミングによって得られました。
大型企画については万博の年をにらみながら計画しています。これまでと同じ形だけではなくて、こういうやり方もある、こういう攻め方もできるというものを示したいですね。
吉野:それは大いに楽しみです。さて、本題の「中世上町台地」ですが、中世は8世紀の終わりか9世紀の頭と言われますが800年近くもあり、全体像が見えにくいですね。
大澤:中世は都が継続して京都にあったので、大阪はどうしてもサブの位置になります。その間ずっと存続する核となるものがないのです。主人公が変わっていくのです。大阪で核となったのは四天王寺だけといってよく、それが見えにくさに繋がっています。大阪といっても渡辺津や四天王寺というように地域色があるのも全体が押さえにくい理由です。
2. 国家的な港、津としての大阪
吉野:長い期間存続したものは港ではないでしょうか。それこそ神武東征の神話から仁徳の高津の宮や遣隋使、中世の全国的な物流も港機能を抜きに語れませんね。
大澤:渡辺は港で、古代難波津を継承するような形で、10、11世紀くらいから名前が変わり、古代の姿は消えていく。大阪の港は国家的な港という位置づけからは外れてしまうわけです。
吉野:ものすごく大事ですね。大和にしても京都にしても、難波津の機能というか、外国から攻めてくるにしても、必ず大阪を通るので、直轄の港に普通はしておくべきなのに、渡辺は渡辺党が押さえる。民間委託のような感じがしますが、どうですか。
大澤:難波津の時代は、まさに難波宮の足元にあるという位置づけで直轄的です。渡辺党は朝廷にその存在が認められている武士団だった。立地上、海に面していることから重要性は変わらないわけです。朝廷は直接押さえるのではなくて、渡辺党にやらせる。また渡辺近辺は朝廷の台所を支える場所でもありました。
吉野:古代には近くに東大寺領が近くにあった。地図で見たのですが、渡辺党の港とは関係なく、東大寺が港機能も直轄で荷物も受けていたのですか。
大澤:港の場所はわかりませんが、古代は天満に東大寺領があったので、当然そこには港の機能があった。難波は港としては重要で、ここにいったん物資を集結させて、淀川、木津川をさかのぼっていけば奈良まで運べる。そのための拠点としても大事な場所でした。
東大寺は、平家による焼き討ちの後、復興の勧進活動をしてお金を集める。その拠点として渡辺津に浄土堂ができます。西日本から物資を運んでくる拠点で、倉庫機能も有していました。
吉野:坐摩神社の行宮が京阪天満橋駅の南斜面(渡辺の地)にありますが、ここも古いのでしょうか。
大澤:資料がないのでよくわかりません。「延喜式」にでてくる非常に格の高い神社で、秀吉の築城(1583)で換地されるまではその地に本社がありました。ただ、発掘調査も少しおこなわれましたが、顕著なデータが出ていないのが現状です。
吉野:その後、本願寺が出てくるわけですが、中世の初期から本願寺に至る間の渡辺津の周辺の動きは、日本史に登場するようなものはないということですか。
大澤:日本史の中で一つは鎌倉時代、鎌倉幕府で実権を握っていた北条氏は、各地の拠点的な港を掌握しようとしていて、その対象に渡辺津はなっている。京都に朝廷があって、当然、大きな寺や神社は京都に集中しています。当時は荘園によって経済が成り立っている時代で、西日本で展開している荘園から京都にどう運ぶかが課題になっていて、渡辺津は海と陸の拠点になる。
吉野:今でも国の管轄は、海(運輸省)と川(河川局)で分かれています。吉村知事は2025年の万博に向けて、「中央卸売市場を挟んだ河川対岸に瀬戸内海の航路と川舟が乗り換えできる結節点「中之島GATE」を整備する」と表明されていますので、瀬戸内海クルーズ時代の広域的な港機能が再生されるかもしれませんね。
3. 西方浄土の四天王寺と南方浄土の熊野
大澤:上町台地で中世を通してずっと続いているのは四天王寺だけです。そういう意味では四天王寺を軸に見ていくと理解しやすいですね。例えば戦国時代に限定するのであれば大阪に本願寺ができた。本願寺は全国的にその存在が認められる大きな寺で、当時は信長と戦うほどの勢力があったわけですから、本願寺を核にクローズアップしていくことができます。
吉野:本願寺もそうですが、中世上町台地で最大のコンテンツは四天王寺の浄土信仰ですね。武士階級ではなく庶民のイメージを持ちます。
大澤:四天王寺の浄土信仰は、庶民の支えもありますが、京都の天皇や皇族、公家の存在抜きには維持できなかったと言えます。巡礼でも四天王寺と住吉はセットで2カ所を回ることが多い。あるいは熊野に行く途中に立ち寄るケースもありました。
吉野:熊野詣の目的は、再生するというか、エネルギーをもらう。神聖な熊野に行けば元気になる。四天王寺や住吉は、その種のパワースポットではないと思いますが、四天王寺は浄土信仰のメッカだったと思います。
大澤:四天王寺は西方浄土、熊野は南方浄土で、極楽浄土です。船に乗って海に出る。そういう意味では浄土です。
熊野は山の中にあって、遠いところへ魂は飛んでいく。それが浄土であり、山の上から天に昇っていく。そういう感覚。高野山も熊野もそうだと思います。ある意味、亡くなった後に次の世界を目指して動いていく。それが海の向こうなのか、山の向こうなのか。心性的には根本は同じではないかと思っています。熊野は、今でも大変なのに、平安時代に山を越えて参詣したわけで、ある意味、現世の浄土とも言えます。
吉野:なるほど、四天王寺と熊野を当時の巡礼者の目線でセットで考える、というのは当然と言えば当然ですが、恥ずかしながら初めて理解できました。「蟻の熊野詣」とあるように庶民もかなり行っているのですね。
大澤:蟻の熊野詣は室町時代の言い方なので、古くはないですが、そういう言葉があるように、あながちウソではない。小栗判官の話も生まれてくる。そういう背景があった。熊野詣は平安時代にクローズアップされますが、庶民への浸透は実際はもっと後ろの方で、室町時代にピークがきました。
4. 四天王寺界隈の広域型都市風景
吉野:大澤様の「並び立つ都市の時代」という論文の中で四天王寺を中心とする都市空間はその西側、北・東・南に隣接した村を含むゆるやかな範囲から構成され、明応8年(1499)の「天王寺ハ七千間在所」(大乗院寺社雑事記)をご紹介されています。浄土信仰という観点からは、西方浄土を願って夕陽丘に住んだり、四天王寺周辺で芸能、見世物があったり、市が開かれたり、中世の天王寺界隈はそうした大きな都市だったのでしょうか?
大澤:四天王寺に人が集まってくる。四天王寺に行けば救われる。そのエリアはかなり広範囲で認められます。それがあって初めて、救済の物語や芸能が生まれてくる。京都の歌人が四天王寺に来て歌を詠んだり、芸能もそうです。経済的な意味合いにおいても、四天王寺の西側に市ができており、多彩なものを扱っていた。陶磁器なども見つかっているので、ここに行けば何でもそろう。そういう感覚に近いものがあったのではないか。売買だけではなく、周辺に大工など、ものづくり系の職人が住むようになる。発掘調査で金槌や瓦を焼いた跡が見つかっています。かなりの消費人口を抱えていたと想像できます。天王寺は信仰と流通・経済面が密接に絡んだ形で「都市的場」が形成されたのです。
吉野:過去に読んだ資料で、四天王寺の瓦職人の集団がいて、瓦を持っていくのではなくて現地で焼く。出稼ぎみたいなことをしていた。とありました。
図:中世天王寺七村図
大澤:それはホットな話で、四天王寺の瓦職人の名が刻まれたものが見つかっている。お寺をつくる大工としては現在の長野。四天王寺には舞楽があって、今の雅亮会ですが、彼らが舞楽を伝えに行く。最も遠いところは山形と、彼らがあちこちに教えに行っています。四天王寺は文化の中心であり、経済的にも中心的な機能を持っていた。それが四天王寺の強さだと思います。
大澤:名護屋城(現佐賀県)から出てきた瓦に四天王寺と刻まれている。どういう意味合いで刻まれているのか。完成品を現地に持っていって設置するのか。職人が現地に行って焼くのか。現地で焼くのなら現地の土を使うので、土を分析するとそれがわかる。また最近では四天王寺がブランド化しており、それを騙ることもあったのではないか、との説がある。確かにありえる話で、それだけ四天王寺は権威化していたのかもしれない。
吉野:そこまで名前が知れているということ。聖徳太子の墓、全国で聖徳太子の伝承がある。高田先生がどこまで調べたかは知りませんが、そういうことも関係するのですか。四天王寺の職人、いろんな材料や道具を描いた旗があって、手ぬぐいは今でも売っています。
大澤:四天王寺の大工が各地の寺社建築に関与した、瓦を焼いたということを示す記録があるので、四天王時は大阪だけに限定される存在ではない。単に浄土信仰の中心だという意味合いではなくて、広範囲におよぶ当時の人たちの暮らしや文化にもかかわっていた。
吉野:そういう関係からいうと、都である京都に文化や経済が集まっていましたが、中世の四天王寺界隈は、広域的でブランド力もあり、芸能者も含めて人が行き交っていたということは、それなりのマーケットがある都市であった。そういう感じがしますが、そのときの都市のイメージがビジュアライズされていない。四天王寺の門前のイメージは映像にあったりしますが、全体としてどんな都市だったのか。歩いて行ける距離で、住民には商売人も農民もいた。かなり特殊な都市だったのか。
大澤:お寺が中心となってまちづくりがなされ、生活・文化が形成されるのは中世では普通。さらに広域も影響をおよぼしていくところが大きな特徴だと思います。奈良は古代以来仏師や仏画を描く人が住み、京都は伝統工芸品。すみ分け的なところがあって、一流のものはこのエリア。地域によって特徴があった。
吉野:四天王寺は単なる門前町ではない。信仰の人たちが来る門前観光町的なものではなくて、文化や経済の中心地で京都に次ぐような大都市だった。地方でいう門前町があったという話では片付かないものがあったのだと思います。
大澤:もっともシンプルな門前町は、真ん中に道があって、両側に道に面して直線に並ぶ。これが普通ですが、一本の道ではなくて、それに並行する二本、三本と増えていると、道にはさまれた面ができる。面になって初めて都市になる。四天王寺の西側には面としての広がり、区画がある程度は復元できそうな部分がある。
吉野:まだまだ話題は尽きませんが、時間が無くなりました。最後に、上町台地の歴史文化を如何に広めていくか、私たちの活動についてもアドバイス頂けないでしょうか?
大澤:それは大きな問題で、私共の課題でもあります。中世をやっていると、上町台地についても地元の人たちがご存じないと感じる機会が少なくない。
現代の人はいきなり古い時代のことを言われてもピンとこなくて、何の話?となる。攻め方は現在から始めてさかのぼるほうが有効か。今のまちや今の生活は実感できるから、そこからスタートしてさかのぼっていかないと、いきなり1000年前、2000年前の話をしても難しい。
吉野:なるほど、わかりました。ある詩人に「昔話をしても誰も食いついてこないから、面白くしなくてはいけない」と言われました。大阪はネタがありすぎて難しいと感じていたのですが、「今」の生活に直結する問題や危機感を刺激して過去に遡る。そこで何か新しいヒントを得る。というストーリーですね。何かすっきりしました。
どうも長時間ありがとうございました。