【プロフィール】
安藤 忠雄(あんどう ただお)
1941年大阪生まれ。独学で建築を学び、1969年安藤忠雄建築研究所設立。
代表作に「光の教会」「ピューリッツァー美術館」「地中美術館」 など。1979年 「住吉の長屋」で日本建築学会賞、1993年日本芸術院賞 1995年プリツカー賞、2003年文化功労者、2005年国際建築家連合(UIA) ゴールドメダル、2010年ジョン・F・ケネディーセンター芸術金賞、後藤新平賞、文化勲章、2013年フランス芸術文化勲章 (コマンドゥール)、2015年イタリア共和国功労勲章グランデウフィチャーレ章、2016年イサム・ノグチ賞など受賞多数。1991年ニューヨーク近代美術館、1993年パリのポンピドー・センターにて個展開催。 イェール、コロンビア、ハーバード大学の客員教授歴任。1997年から東京大学教授、現在、名誉教授。
話し手:安藤忠雄 先生
聞き手:吉野国夫 (常務理事)
吉野: 本日はコロナで大変なところ、ありがとうございます。今日のテーマは大阪の芸術文化についてということで、中身はお任せです。2014年にASKアーツサポート関西 (代表サントリー鳥井信吾) という芸術家の純民間助成団体を立ち上げ、ファンドレイジングパーティをロイヤルホテルでやったのですが、一晩で2500万円ほど集めた時、安藤さんに出していただいたプレミア本が50万で売れるなど大成功でした。おかげで今もASKの助成も継続しています。その節は大変ありがとうございました。
安藤: コロナウイルスによって世界中が甚大な被害を受けるなか、芸術文化もまた大きな影響を受けると思います。今回のコロナは、これまでのどの感染症とも全く違う、厳しいものです。関西では感染拡大は落ち着きを見せていますが、多くの企業が経済的に打撃を受けていますし、大変なのはこれからかと思います。社会はもう元通りには戻らないのではないか。それ程深刻に受け止めています。
吉野: 私は、日本が圧倒的に遅れていたテレワーク(リモートワーク) やテレビ会議、遠隔医療、行政手続きなどが一気に進み、Web上の世界が進化すると見ています。
安藤: Webに期待しすぎるのも良くないと思います。確かに一部の業種ではテレワークも有効の様ですが、建築は現場もありますし、なかなかWebだけではできないなと実感しました。経済が元の水準を取り戻すのは、恐らく相当の時間がかかるでしょう。企業が動き出しても、消費者は簡単には戻らない。日本でこれまで動いていたお金が100としたら15くらいになるのではと感じています。そうなると会社も劇的に変わらなければならない。 これまでの給料の3分の1で生活ができるかという議論が現実的になってくると思います。
冗談でなく、いろんな知り合いから「ジャガイモを植えろ」と真剣に言われます。
吉野: では、本題に入ります。昨年の10月に大阪・ハンブルク友好都市30周年の国際シンポジウムをやりました。簡単に言うと、大阪が芸術文化に対して不毛の地のような言われ方をしている現実に対して、文句を言うのではなく、実際にどうしていけば芸術都市になれるのか?それをハンブルクの成功に学び、 芸術都市大阪の目標像を提案したのです。ハンブルク市の芸術・クリエイティブ産業の行政マンであり、かつアーティスト、大変美人のスピーカーで、みんなファンになったくらい、いい話を聞かせくれた。それをもとに議論し、その後も議論を重ねて提言まで持って行きました。
この延長線上で、今ターゲットに置いているのは2022年。聖徳太子が亡くなられて1400年の記念の年です。瀬戸内芸術祭が同じ年にあるので、先日、北川フラムさんに、この機関誌の取材で議論しました。上町台地も聖徳太子の記念のイベントをするので連携できないかという話。瀬戸芸は、今まではあまり大阪とつながっていなかった。欧米の金持ちも含めて、アートに敏感な人たちがたくさん来ているのに、大阪には寄らない。これを次回は何とかしたいと思ったわけです。
安藤: 確かに、大阪で芸術、と言われると違和感を覚える人が多いと思います。
吉野: 大阪は、そうした人に対して何も見せていないし、何もないと思い込んでいる。 たこ焼と吉本だけで満足している。大阪は焼けてしまって、古いものは奈良と京都に任せてるが、中身が面白い話はいっぱいある。四天王寺も日本最古の官寺だし、昨日、大規模改修中の大槻能楽堂で大槻文蔵さん(人間国宝) とお会いしましたが上町筋のあそこで生まれ大阪城で遊んでたそうです。上町台地には資産がいっぱいあるわけです。
建物が見えないなら、人で体験してもらうしかない。先のシンポジウムでは、四天王寺の重要文化財で舞楽をやりました。舞楽は1400年の歴史があって、雅亮会の小野真龍さんは小野妹子の八男の家系だそうです。上町台地にはそういう人や、面白いネタがたくさんある。人や歴史、資源、物語はいろいろあります。ところが今、大阪で見せるものといったら何もない。これは逆に言うと、これからやれば大きく芸術文化都市に化ける可能性がある。と思って活動しています。
安藤: 大阪の芸術、文化というのは本当に存在感がない。このまちの人はそういう事に関心がないというのが実情ではないでしょうか。今はコロナの次のことを考える力が必要です。その為には感性と判断力を養わなければいけない。その意味でも、芸術文化は大いに役に立つと思うのですが。1960年代から、具体美術協会の人たちと交流してきました。この人たちは芸術を通して新しい世界を切り開こうとしていたわけです。 吉原治良をリーダーとして、白髪一雄、元永定正など、著名なアーティストが名を連ねました。合理的精神しか評価しない 「リアリズムの街」大阪で、現代美術という一見何の役にも立たない、先鋭的な活動が生まれてきたという事実にまず驚かされます。
具体美術協会は1972年の吉原の死によって幕を閉じますが、彼らの活動はその後90年くらいまでは海外ではそこまで評価されませんでした。90年になってからフランスで展覧会をして、その先駆性が再評価されるようになった。
吉野: あれからですね、世界で売れだしたのは。
安藤: 大阪人特有の開き直りでやれるものならやってみろ、そういうエネルギーが芸術に向かっていった人たちです。今、世界中で具体は評価されているわけです。 具体に所属した多くのアーティストにはまともな生活がなかった。家を買って食事を用意するような普通の生活が。例えば具体美術協会の人が、ローンで家を買うなんて想像もできない。
吉野: 当時のアーティストの多くは嫁さんに食わせてもらっていた。
安藤: 嫁が稼いできたお金で生活をしていた。うちのお父さんは面白いことをしている。 それが嫁の誇りだった。お父さん、うまくはないけど好きなことをさせておこうと。最大のパトロンは嫁だった(笑)。
この前、兵庫県立美術館でゴッホの展覧会がありましたが、ゴッホの生活費は全部テオという弟が出していた。パリに行ってゴッホにお金を送っていたわけです。テオの嫁がゴッホの才能はすごいと思って、全部の作品と手紙を残していた。それが有名なゴッホとテオの書簡です。理解者がどこにいるか、それが芸術家にとって最も大きな問題です。
具体美術は、60年代という熱気あふれる時代性も味方して、高い評価を受けました。64年の東京オリンピックから、70年の大阪万博に向けて、あのころの日本はとにかく元気だった。国そのものが青春時代だったと言えます。具体美術は、その時代の空気にしっかりとマッチした。ただ残念ながら、あの頃の元気は、今の日本においては見る影もありません。
奇しくもこれから東京オリンピック、 大阪万博と続くわけですが、今の時代に即した在り方を考えなければいけません。2025年の博覧会は健康がテーマに挙げられていますが、 健康というのは、歩いて、考えて、楽しい生活をする事です。その分には必ずしもお金はいらない。中之島や上町台地をグルグル歩く。緑が豊かで桜が咲いている。 人生にはそういう、心身が落ち着き、潤う要素と、現代美術みたいな刺激的な要素が必要だと思います。
吉野: 上町台地には聖徳太子1400年の代表的なシンボル四天王寺や難波津があります。
安藤: 大阪に四天王寺があることを知らない大阪人はいませんが、みな詳しい中身も知らないし、行こうとする人も少ない。四天王寺の魅力をもっと積極的に発信出来ればいいのにと思います。都心にあれだけ大きな敷地があり、なにより歴史が深い。亀以外にも何か欲しいですね。(笑)
吉野: 何度も焼けてしまって今はコンクリート造の建物になっています。法隆寺と比べるのは酷というものです。それよりも歴史や芸能、生きた信仰では圧倒的です。
安藤: 四天王寺の西門では西方浄土が見られます。長い信仰の歴史を肌で感じることのできる貴重な場所ですが、大阪の人はそれをあまり認識していない。
また、大阪の人がわが町の文化を語る時、松尾芭蕉や井原西鶴の名を良く挙げます。 この二人はほぼ同じ時代を生きています。しかし例えば、芭蕉が大阪で息を引き取ったのは有名な話ですが、その最後の場所として御堂筋に碑が立っていることはあまり知られていない。
吉野: 西鶴もそうです。お墓がガソリンスタンドの奥に隠れるようにあるという事が宣伝されています。しかし、西鶴のメイン舞台は大阪で生玉神社での俳諧、「好色一代男」や世界初の経済小説「日本永代蔵」も大阪、谷町3丁目の西鶴庵で亡くなっています。1993年に谷町筋に地域の有志が記念碑を建てています。これも知られていない。
大阪では住之江区の芝川さんところが芸術家村で成功されています。先日、森村泰昌美術館をオープンされ、アートと不動産事業の相乗効果で成功している。
安藤: 実は、私が70年代に仕事をはじめて、最初の頃の仕事のクライアントが芝川又彦さんだった。この人は、桜宮橋 (銀橋) や京都大学の時計台、国会議事堂の設計にも関わった武田五一に屋敷を設計させた芝川又右衛門の孫。又彦さんには大変お世話になって、一緒に帝塚山タワープラザや、神戸の北野アレイで仕事をさせて頂いた。この人が関西一の地主でした。
吉野: パトロンでもオーナーでもないが京阪の故佐藤茂雄、元商工会議所会頭はすごかった。課長時代から水都大阪をやろうと頑張っておられ、今の美しくなった中之島や八軒家浜もあの人がいなければ出来ていなかったと思います。
安藤: 中之島は新美術館もできるし、具体美術の作品が遊歩道や広場にボンボンあれば面白いと思う。作品を大きくするのも今はコンピューターですぐできる。今、中之島に足りないのは芸術作品だと思う。
吉野: 先日、「こども本の森中之島」に行きました。コロナでオープンが遅れているようですが。歩行者天国にしようと工事をしていました。
安藤: 前面道路の歩行者空間化。これは大阪府・市でよく頑張って実現したと思います。大阪を芸術文化のまちにするためには、こういった思い切った挑戦が不可欠です。
「こども本の森 中之島」の運営費は毎年5千万円必要ですが、これも寄付で賄います。民間企業にお願いし30万円ずつ5年間払ってもらう。目標は150口でしたが、610口ぐらい集まって年間1億8千万円になった。大阪の人はケチだとよく言われるので意外に思われるかもしれませんが、逆にこれは大阪でしかできない手法だと思っています。東京ではこうはいかない。
吉野: それは安藤さんが脅迫?営業をしたからではないでしょうか。(笑)
安藤: それだけじゃない。やはり大阪の人たちの、自分たちのまちを自分たちで何とかしようと思う遺伝子の為せる業だと思います。
吉野: ドバイの1年延期が決まりましたが、 博覧会はどうみてられますか?
安藤: 2025年に向けて、再び桜の植樹を行ってはどうかというアイデアもある。2004年にスタートした「桜の・平成の通り抜け」の取り組みでは、市民からの寄付を集めて、大川・中之島一帯を中心に、2010年までに3000本の桜を植えた。あの活動を復活させ、万博まで2025本の桜を植えようという取り組みです。実際に大阪府・市を巻き込んで、すでに動き始めています。
今時、企業は、博覧会にパビリオンは出したがらない。私は万博そのものには積極的には関与しないと公言しているが、うまくいくかどうか大変心配している。市民の心が博覧会に向いていないように感じるからです。その点はもう一度真剣に考え直す必要があると思う。
吉野: 市民だけでなくて、企業も関心が低い。分担金を取られるだけ。という空気がある。僕は、会場だけでなく各企業自体や、関連地区でサテライト会場をつくって企業PRも含めて取り組んではどうかと思っています。博覧会と企業はウィンウインでないと成功しません。とりわけ鉄道会社の駅、鉄道そのものを会場にしてしまう。本会場と鉄道駅会場を結んで、そこで8K、 映像ホログラムや立体映像、VR、今はMRといって現実と仮想が同時に使える。そうなるともっとオモロイので、そういう実験を今からどんどんしていく。 実は3月23日にウメキタのOIHで、そういうセミナーをしました。
安藤: 博覧会も大事だが、このコロナ禍の社会の中、我々が来年も生きていけるかどうかを考えないといけない。レストランにしてもショップにしても、今街なかでは働けるところがない。みんな失業の世界です。根本的に世界を見直し、強引にやるべきことをやり遂げないと地獄絵を見るので、ここが正念場でしょう。
吉野 : 本日は長時間、中身の濃いお話と問題提起を頂き、どうもありがとうございました。