【プロフィール】
北川 フラム
1946年新潟県生まれ。東京芸術大学美術学部卒業。アートフロントギャラリー代表。
「ファーレ立川アートプロジェクト」 (1994) をはじめ「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」 (2000~)、「瀬戸内国際芸術祭」 (2010~)、「北アルプス国際芸術祭」 (2017)「奥能登国際芸術祭」 (2017) 等の総合ディレクターを歴任。2018年文化功労者。
話し手:北川フラム 先生
聞き手:吉野国夫 (一財)大阪地域振興調査会 常務理事
吉野: 本日はコロナ問題で大変な時期にありがとうございます。初めてお会いしたのは2006年の第3回越後妻有 「大地の芸術祭」でしたが、気さくにお話頂いたことを印象深く覚えています。その翌年、大阪府のアートイベントでは大変失礼なことになってしまいました。今さらながらその節は申し訳ありませんでした。
本日はテーマを2点持っています。1つは北川さんがこれまでされてきた越後妻有や瀬戸内芸術祭のスタートからこれまでの経緯、2点目は2022年の瀬戸芸について取組みについてです。実は「聖徳太子1400年忌」 の記念事業が2021~22年にかけて進んでいますが、 大阪には四天王寺があり、難波津の上町台地や関西国際空港もありますので、大阪との連携の可能性についてお聞きしたいのです。
聖徳太子は、四天王寺と法隆寺を建てられましたが、法隆寺のある斑鳩と四天王寺は大和川・渋川道で結ばれて太子が良く往来していたとの伝説があります。本誌の26号で、法隆寺その故大野玄妙管長にインタビューをさせて頂きましたが、たまたま道後温泉の話が出ました。聖徳太子が訪れたという伝承があり、長く法隆寺の荘園であったそうです。 道後温泉本館の前に大きな新館をつくられたときには大野管長が招かれて「飛鳥乃湯(あすかのゆ)」の揮毫をされたそうです。
北川: なるほど大阪も奈良も水でつながっているのですね。越後妻有ですが、これは、1980年代の日本の都市化がますます進み、地方が壊滅的にダメになって、それを挽回すべく市町村合併を進めた事が背景にあります。効率最優先の社会になり、全てのものが都市に集中する問題。もう1つは、今のいろんな動きの中で、第一次産業の労働が製造業やサービス業に比べて全く効率性が悪いとされる問題。究極の原因は金融資本主義から話さないといけないが、突き詰めると田舎というか地域は壊滅的にダメになって、本当に悲惨な事態となっていた。
そこで、地域づくりの原点から始めたのです。都市集中は人間にとって決して良い状態ではない、田舎はますます重要性が増して、都市環境や自然環境の問題を考えても、「田舎がどのようにつくられていくか」が大変、重要な時代になってきた。ところが、田舎の人たちは、自分たちは遅れていると思っていて誇りを持てない。
そういう中でアーティストが来て地域の持つ良さを直感的につかみ、それが見えてくる作品をつくっていく。その間に閉鎖的な土地も開かれていき、様々な人が来ることで地域に誇りを持てるようになってきた。簡単に言えば、そういう構造でやってきました。
そこにいる人たちにとって地域の資源や特色は何かということに関しては、アーティストと地域の人々は立場を超えて、何か共通に通じるものがあり得る。美術はいろんな意味でものすごく可能性があり、美術で地域を元気にできる、美術はそういう働きを持てるのです。アート作品はある意味、赤ちゃんみたいなものです。アートは手間もかかり時間もかかる。でも面白いところもあって、やっていく中でいろんな意味で開かれていき、みんなも手伝いだすのがアートなのです。
吉野: 私は奇跡的な事態だと思っています。「ひらく美術」 (ちくま新書) の中で、「反対者が同じ土俵にいること、同じ土俵に乗ってもらうことが大事」と書いておられます。まちづくりを 「業」とする者にとっては痛いほど分かるのですが、越後妻有での成功は、サポーターの「こへび隊」もあると思いますが、反対者を包摂する。最初に反対していた人がある時点で乗ってくるまで辛抱強く待つ。そこまでの期間につぶされずに継続された事が衝撃でした。
北川: 大地の芸術祭開催前には4年半の間に2千回を超える説明会をしました。お前たち都会の者が、フラっと来て、やれるもんならやってみろと言われたようなものです。結局、 地元の理解を得るには3回、9年間かかりました。その中で人が来て、いろいろ出会いがあって面白いと言いだすのです。
吉野: 説明会をとことんやるということですね。
北川: 説明会をしないとわからない。200くらい集落がありますが、今はほとんどの集落がやりたがるようになった。いろんな人が来ると面白い。田舎に来ると発見があるし、人をつなぐ要素があるのでガンガン広がっていくわけです。そこで重要なのは外国人のサポートで、昨年の瀬戸芸は海外から数千人、全国から約1万人が手伝いに来てくれました。膨大な人がかかわりだしたということです。なぜかというと、特にアジアは20~30年で近代化しなければいけなくなった。しかも、それが一挙に来ているので固有の文化がなくなっていく。そういう中でみんな大変な思いをしている。
越後妻有や瀬戸芸は、その最先端の試みだ、面白い、学びたい。この数年間でアジアは芸術祭がものすごく多くなりましたが、例えば台湾では「大地の芸術祭」をやっていてアートイベントの普通名詞になっている。今はコロナでストップしていますが、中国からもたくさん来ています。日本にいると米中貿易戦争みたいに思っていますが、中国は田舎と都市の格差、農業問題が非常に大きいので、真剣に学ぼうと来ています。
吉野: それはアーティストですか。
北川: 行政。中国の場合は民間と行政が一緒にやっているので行政と民間で、昨年だけで50を超える単位で来ている。
吉野: 以前お会いした時、越後妻有では10年間は予算が保証されていたが、そこから先の見通しはないので、それをどう乗り越えるかが課題とおっしゃってましたが、お金の問題はどのようにされたのですか。
北川: お金の問題として、市町村合併の関連予算で、要するに10年間で5億円が使えたのですが、それを2回で使ってしまった。その後も続けることができましたが、越後妻有は予算的には3年間で6億円くらいはかけています。
それができたのは、どんどん来訪者が増えて成功が見えてきたからで、十日町・津南町が出しているのは3年間で1億2千、あとは全部パスポート(入場料)と助成・協賛・寄付で8億くらい集めています。
吉野: 1億2千万、財政規模からみて、それだけ町が出すというのはすごいことですね。
北川: 十日町・津南町は、毎年4千万円、3年間で1億2千。あとの5億円はパスポート (入場料)と寄付・協賛・助成です。
吉野: なるほど、4千万円の投資が町にそれ以上の税収効果があるということですね。
北川: 自治体の予算は13%くらいです。瀬戸内の場合は、3年でもっと予算規模は大きくて、収入も多いからできているわけです。お金が集まる仕組みができてきた。ものすごい数の人たちが来ます。そういう中で元気が出てきた。同じ構造です。瀬戸内の場合は来やすいですし、高松空港直で飛行機、直行便ができ始めたので、今は3年に1回だけではなくて、美術館や常設展示も多く、ベースの来訪者がグングン上がっています。
吉野: 高松駅やフェリー乗り場には行くと、欧米系の人が目立ちます。
北川: インバウンドは、高松空港は、桁外れに250% か何か、他と比べて桁違いに増えています。香川県の場合は、岡山も一部入っていますが、島という大変不便なところの10市町。1市は岡山県玉野市で、あとの9は香川県の市町がかかわっていますが、行政が一緒というのは面倒で、行政の壁があるので大変です。
吉野: 全国に地方創生の予算が流れ、アートイベントが大ブームですが、補助金がなくなるとつぶれるようなものばかり。そういう意味で、瀬戸芸が続いていく事の意義は大きいですね。
北川: 国も瀬戸内と妻有には予算を出しています。外国では妻有の方が有名な部分があります。瀬戸内は、4年前にアジアで火がつきましたが、昨年は欧米がすごくて、ナショナルジオグラフィックが 「世界で行くべきところNO.1」に挙げているし、ニューヨークタイムズは7位だったか、世界で欧米でも火がついたという感じです。
香川県の場合、重要なのは、いくつかの島で人口が増えています。男木島では日本で初めて学校が再開しました。150人を切っていたのが今は200人になり、50人が順番待ちで、インフラができたら入ってくるという感じです。小豆島は多くの人が来ました。そういう感じで社会増によって元気になってきたというのはあります。
吉野: 以前、関西経済同友会にベネッセの福武總一郎さんをお招きしましたが「よりよく生きる」という哲学的な話が印象的でした。ある人から「福武さんは個人でアーティストの出展者の作品を継続的に買っている」と聞きました。
北川: 瀬戸芸の原点は直島ですね。直島は、私が入る前に、ベネッセ及び福武財団が20年間もかけて自分の土地でアートサイトをつくってきた。それはとても大きな力だった。私は福武さんと香川県知事に呼ばれて行ったのです。それが出発点です。ベネッセ及び福武財団が自分の土地でやっていたことを瀬戸内でパブリックな形でやりたい思いが強くあり、それなら北川を呼んでこいとなって始まったということです。
吉野: 北川さんに来てもらったと福武さんはよく言われていましたが、香川県と福武さんとの関係は良かったのですか。
北川: 香川県の真鍋知事は10年間、借金財政の中、着実に改善されてきました。最後の任期のときに、香川県の職員たちも、大地の芸術祭みたいなことを瀬戸内でできないだろうかという気持ちが強くあった。福武さんも、自分の土地でやってきたことを瀬戸内に広げたいと真鍋知事に申し入れをした。ちょうどタイミングが合って、私が全体のディレクションを行うという形で入ったのです。
吉野: アートイベントは、知事や市長が代わったときが難しいと言われます。だいたい前期の人がやったことを否定する。
北川: 普通はそうなります。3期で真鍋知事は終わって、始まってすぐに浜田知事に代わりましたが、そのまま続行するだけでなく、さらに力を入れてくれました。そういう意味では、知事は賢明だった。あれで大きくなりましたから。それに乗ったうえで、特にインバウンドは今の知事が頑張りました。外国の航空会社とトップ営業をされたようです。
吉野: 大林組の大林剛郎さんは越後妻有に昔から通っておられて、現地で偶然お会いした事もあります。先日「都市は文化でよみがえる」(集英社新書)を出されましたが、この機関誌の26号で語っておられたのは、「海外から来た友人たちは見飽きたので京都や大阪はパスして瀬戸芸に直接行って関空から帰る」とおっしゃってました。
北川:そういう方が大変増えています。来場者の割合は海外が30%を超えています。素晴らしいのは通年化していることです。別荘も増えて、香川県では昨年、芸術祭に合わせてホテルの客室数がかなり増えました。屋島を変えるところから始めて、今それが広がっている。その影響を受けて四国も頑張りだしました。岡山も広島も頑張りだした。瀬戸内は頑張っている。それが大阪につながるわけですね。
吉野: 大阪にも何とかつなげたい。
北川: 瀬戸芸を始めてから、どうしても必要だと思って、派手ではないですが瀬戸内文化の研究書を2022年に出す予定です。これはその中間報告です。つまり「瀬戸内は何か」ということをやってきているわけで、これは総合的な研究です。
そこで分かった事ですが、大阪は難波津から始まって、瀬戸内を前庭にして発展してきた。北前船や加賀、船場ができる、1910年代、20年代の大大阪の時代まで、海を大きく使って発展してきた。要するに、アジア全体とつながり、大阪はアジアのマンチェスターと呼ばれていた。同じ頃にヨーロッパで頑張っていたのがベニスで、海を正面にして世界一の都市と言われるようになった。その頃から大阪は海に背を向けて内部だけでやってきた。そういうことが勉強していくとわかります。
瀬戸内は日本全体の縮図です。日本は国土面積では世界で61番目ですが、海岸線は世界で6位。瀬戸内はその一番よいところ、瀬戸内は豊かで安定した穏やかな海。それが重要で、その余得をすべて吸収したのが大阪です。そこから大阪は海と外国に対して門戸を閉ざした。
吉野: なるほど前庭ですか、海から川につながる堀川、大昔の難波津は 「仁徳さんの堀江」 で可能になった、生まれながらの水都でした。水都大阪は、京阪の故佐藤会長は課長時代から水都を目指され、大阪商工会議所の会頭でお亡くなりになるまで一貫して取り組まれました。
北川: そういう動きが大阪であり、私がかかわりだしたときに、みんなの動きで最後は水都大阪が表看板になった。会議所や財界はその方針がよいと思ったわけです。そういう意味で大阪・関西と瀬戸内は大きなつながりがあり、それを活かさないともったいないと思っています。
吉野: 昨年、大阪・ハンブルク友好都市30周年記念の事業で、「大阪は芸術都市を目指そう」というシンポジウムを行いました。実行委員会の近鉄さんは瀬戸内海に対しては、重視されているように思います。
北川:昔の人たちは地形・気象という中でものを考えてきましたから、そういう意味では、それを活かさなければいけないと思っています。
瀬戸内では JR西日本が頑張りだしました。アートイベントは行政とかかわらないとできない。やりたい人だけでやれという話になってしまう。行政とやる限りは、みんな文句を言いながらでも関わる。そういう意味では行政は大変手間がかかりますが、地域を挙げての運動には不可欠ですね。
大阪はいろんな意味で、瀬戸内を上手に使わなければいけない。瀬戸芸で魅力のある場所だとわかってきたと思います。昨年、万博の公聴会に呼ばれたときには、要するに海とつながらなければダメだということだけ申し上げました。アジアも含めて、瀬戸内を通して、もっと大阪は水を上手に使った方がよいと思います。
吉野: わかりました。大阪の人は、大阪の歴史は大阪城ができてからしかないと思っていますが、とんでもない。
北川: 決定的なのは、難波津があったからです。
吉野: 聖徳太子が600年に遣隋使を派遣して、全く相手にされず、そこから本格的に十七条憲法をつくったり、お寺をつくったり、芸能や服飾、いろんな大改革をして、607年に第二次の遣隋使を派遣。アジアでは初めて冊封でない関係ができ、答礼使を派遣してくれたので、日本が国際的なポジションができたと見ています。それが608年ですが、答礼使は長く難波津に滞在していますが、私は四天王寺の最先端の建築や工芸、舞楽の宴を催し、自慢したのだと思います。その後、船で斑鳩まで行く。そういう流れがあります。その道程を1つの観光ルートにしようではないか。そういうことでやっています。
Photo: Nakamura Osamu
北川: 古代を掘り起こすのは重要です。
吉野: 最後に、2022年の瀬戸芸の目玉というか、特色というか、どんなものですか。
北川: 基本的に定着したと見ています。瀬戸内全体で見ると、海だけでなく里山が重要で、山から海へ急流で落ちてくるから水がためられない。だから岡山も広島も讃岐もため池が多い。それもあって、島や海が中心ですが、内地にも入った見せ方をしたい。これが1つです。
もう1つは、今までと同じようにアジアとのつながりをさらに深くしていく。セットで動いていますが、今回はコロナで人が来られなくなっているので、その中でどのようにネットワークをつくっていくかが課題です。やり方も考えながら、2022年に向かわなくてはいけない。3月31日に瀬戸芸の総会を行って、そういう方向で行こうと決めた。
12の島と2つの港。それは変わりませんが、もう少し内地に入って、高松だと屋島のあたりが頑張る。そういうのが出てきています。
吉野: なるほど。まさに海と島の概念の拡張ですね。大阪も八軒家浜 (難波津)から上町台地に古代からの重層的な歴史がありますので、瀬戸芸と何らかの連携ができれば良いですね。本日は、コロナ問題で大変な時に長時間ありがとございました。