【プロフィール】
大野 玄妙(おおの げんみょう)
1947年、大阪府生まれ。聖徳宗第6代管主。法隆寺第129世住職。3歳から法隆寺に住み、小学3年生で得度、龍谷大学大学院修士課程修了。1993年に法隆寺執事長となり、法起寺住職、法隆寺住職代務者、同宗管主代務を歴任。1999年に現職となる。
(新版 古寺巡礼奈良 1 法隆寺より)
話し手:大野玄妙 法隆寺管長
聞き手:吉野国夫 (一財)大阪地域振興調査会 常務理事
吉野: 本日は夏安居のご講義の中、お時間をいただきありがとうございます。今号のテーマは「和と技」、和の精神や和のものづくりを取りあげています。文化庁はこの3月にユネスコ世界無形文化遺産に、「伝統建築工匠の技」という建築技術を受け継いで行く為の「技」を申請しました。
和の技術を素材も含めて保存していこうとの流れがあります。この前に登録された和食同様、障子やふすま、畳など、日本の職人の技が注目を浴びています。法隆寺のようなトップクラスの国宝を維持する職人たちだけではなく、日本の技術が最上層に行くためには、裾野の職人をしっかり育てねばならないと思っています。
大野: 裾野をしっかり育てなければ名工も出てこないですね。
吉野: 裾野が衰退している。中国の安い材料や工場ではなく、本物の木材や和紙を使って本物の技をつなぐ人が急激に少なくなっています。
大野: 日本人が日本の昔の家屋から離れてしまっているのが一つの問題です。マンションばかりが増え、鉄とコンクリートばかりで、とても残念な感じがする。
吉野: ドイツは逆で、日本の畳や建具に人気がある。日本で修業したドイツ人が母国で「TAKUMI匠」という名前の工房を開き、開業したところ注文がこなせないほどの人気となっているそうです。ドイツの住宅は天井が高いので日本の規格では合わない。乾燥するので、現地の材料を使って現地の職人が製作しているが、日本のデザインが大変喜ばれている。
大野: マンションが日本の木造建築の文化を壊している。最近のマンションには和室がないものや、申し訳程度に一室あるだけのものも多い。日本の精神性をつないでいくには和室は必要だと思う。和室には仏壇があったり神棚があったり、それで家族がまとまっていた。ところがマンションには仏壇を置く場所がない。近所の寺では、マンションで暮らす檀家が寺に仏壇を預けにきて、本堂は仏壇だらけである。寺に預けたままで、表現は悪いがそれこそ先祖を捨てにきていると言われかねない事態です。
聖徳太子の和とは
吉野: さて、本題です。元号の令和にも和がついています。漢字学者の白川静先生は、和は軍門の前で講和するとの字義を書かれていますが、否定的な見解もあります。『日本書紀』の推古20年の記事に「天皇和日」とあり、「天皇が和して曰う」和んでのたまった。正月の宴会で天皇が、 蘇我蝦夷が詠んだ歌に対して返歌をした。私は、和やか、和らぐ、和むという意味が強いと思っていますが、聖徳太子が言われた和はどんなイメージだったのでしょう。
大野: 聖徳太子の「和を以て貴しとなす」という言葉は、中国の 『論語』 『礼記』に出てくるが、意味合いが異なり、礼を保持していくために和が必要である。つまり礼の働きとして和が必要である。ところが、聖徳太子の場合は、その後ろに「驚く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」とある。聖徳太子は仏教の研究者で、そうとらえてしかるべきであるが、ほかに理由はないかと考えた。
厳密な数字は出てこないが、400年頃に朝鮮半島を経由して漢字が伝えられた。王仁という現在の八尾あたりの人だったと思うが、それ以降、日本語の中で日本人の宗教観や精神性を代表するものとして和を当てはめたのではないか。
吉野: 日本人の精神そのものとして和を使った。
大野: 日本人の心として和という文字を使ったのではないか。もっと古い文献等に使われていないかと調べると、『古事記』があったが、「わ」と読むのではなく、「にき」である。 賑わいの「き」である。
聖徳太子の本当の思想的・精神的なベースはどこにあったのか。 聖徳太子は皇族で、皇族として行うべき仕事がある。『日本書紀』にも載っているが、年がら年中ご先祖や神様をお迎えし、国民が平穏・平和で安定していること、 五穀豊穣、穀物がたくさん実ることを祈る。それを生業としていた。これは欽明天皇13年10月条に載っている。仏教が入ってきたときに反対した物部尾輿、中臣鎌子の言葉として残っている。それが仕事である。それをある。それを考えると、聖徳太子の本当のベースは神祇祭祀にあった。だから神社でもまつられている。
聖徳太子という個人は蘇我系の皇族として育っている。蘇我系は渡来人が多いので、当然、聖徳太子の仲間も渡来人が多く、渡来人から大陸の情報を得ていた。そういう中で仏教も入ってきた。公伝以前の仏教で、522年に司馬達等が日本に渡来、『扶桑略記』には司馬達等が仏教を信仰したと記されている。
吉野: 538年よりも前に入ってきている。
大野: 入ってきたのは明らかである。その中で、聖徳太子、朝鮮半島からの渡来人たちはどういう仏教を信仰していたか。これは間違いなく菩薩思想である。これは当然のことで、それよりも前に中国は菩薩思想だった。菩薩思想の行き着くところは、すべての者が等しく仏道を成ずることができるである。
日本人の精神性とは、限られた地域の中で、自然の脅威や、自然の恵みを受けた際には、その恵みを分かち合い、皆で助け合う。いたわり合って皆で頑張っていく。そういう構図になる。
吉野: 持ち寄って和する。足し算は「和」なので、合わせる、融合するという意味もあると密かに思ってましたが、そういうことだった。
大野: そういう意味合いもある。日本の国は、文字がなかったので、古い時代から漢字を使って表現していた。人々の精神的なよりどころは収穫である。 秋の収穫には村の鎮守、 神社に集まり、ワイワイと賑わう。賑わうが「和」である。「にき」と「にぎ」は同じ意味で、収穫したらご先祖たちと共食する。それが村祭りであり、自分たちだけではなく、先祖も一緒に楽しむ。名前も知らない遠いご先祖も含めて一緒に楽しむ。それで賑わうわけです。
吉野: 仏教とご先祖様との共食が日本の仏教の源流にあったということですね。
大野: そうです、神様の世界で最も古いといわれているグループの中に熊野信仰がある。 熊野信仰も基本的には、本宮は食べ物、速玉は男根、那智は女根で、古い形は繁栄と食事しかない。「御食の「け」です。 那智は滝そのものがご神体で、速玉神社の近くに突き立った岩がある。男根です。和は日本人そのものを指している。そういう環境の中で長い間に培われてきたものである。
日本の精神性というか、国民性も含めて、日本人独特の思想です。そういうベースがあって中国から菩薩思想が入ってきて、両方が聖徳太子の頭の中で一つとなった。
吉野: 菩薩思想と日本の和の思想とが合体した。それで聖徳太子は「和を以て貴しとなす」や三宝という言葉が出てくるのですね。
大野: いずれにしても、そういう形で、和を以て貴しとなすという言葉が出てくる。 聖徳太子は、仏教の研究者で、大陸の文化に秀でた人、外交が上手だった。そういうことは書いているが、神様とは結び付かない。
和の創造性と令和の意味
吉野: 和でないものは何かと考えたときに、なぜ聖徳太子は和と言ったのか。大陸を意識して、それに対して和だったのかと思っていたが、今のお話では、それだけではなくて両方が入っている。
大野: 両方が入ってくると今度は、三宝の中に仏・法・僧があり、僧は和合衆と表現されている。和合衆は、平和のために皆で努力し、実際に実践していく人たちのことで、僧侶にたとえられる。そういう考え方がある。
日本的な考え方の中に新しい文化が外国から入ってくると、最初は模倣であるが、そのうちに徐々に自分たちで解釈し、理解して自分たちのものを創り上げていく。これも和合であり、自分たちの文化に仕立て上げていく。和様という言葉が出てくる。
吉野: 『古事記』に出てきた和の「にき」は、年代的には聖徳太子よりも前で、聖徳太子の頭にも入っていた。
大野: はるかに前だが、知っていたと思っていて、日本人の心持ち、精神性をあの文字で伝えた。その中には民族的なものもある。学生時代によく言われたのは、明治・大正・昭和は「明るく・正しく仲良く」である。平成は平等なのか、平和なのか。新しい元号は令和で、昭和と令和の違いはどこにあるのか。
吉野: 令という言葉は7世紀からありますが、大宝令(律令) が初めての本格的官僚制度で兵部省も設けたので、あまりいい印象を持っていません。
大野: 令和は万葉集を根拠としているが、中国的に読むと「和せしめる」となる。元号として、中国人が言っているのは、発音が同じであれば別のものでもよくて、隣という字が「令」と同じで、隣近所が仲良くするという意味合いとして中国人は受け止めている。 漢文や中国の古典をやっている人たちは和せしめると読む。
「隣」は、中国的な考え方からすると、中国の政策の正当化であり、アメリカと仲良くするよりも中国と仲良くしなさいという意味合いがある。令和は、神様であれ、天であれ、ご先祖であれ、仲良くしろとおっしゃっているのだと思っている
吉野: なるほど令にはそういう意味があったのですね。
大野: 昭和の昭は、仲良くしましょう、あるいは仲の良い世の中にしていきたいという願望であった。平成は平和な時代というが、海外ではテロや戦争等の問題もあった。それを考えると、あれだけ仲良くすることを求めていたのに、おまえたちは何をしているのか、仲良くせよ。ご先祖がそう言っているようにも思える。
吉野: うがった見方をしていました。大宝律令でまた戦争の組織的な流れが来る、そんな読み方をしてはいけないと思いながら、逆に隣という字、仲良くするという概念は大事ですね。
大野: 日本的には神様が怒っている、ご先祖が怒っている。
聖徳太子1400年に向けて
吉野: 聖徳太子1400年ご遠忌に向けて法隆寺としては何をなされるのか。それについて何か思われていることはありますか。
大野: 聖徳太子ご遠忌は法隆寺では10年ごとに行っている。大きいのは100年区切りになるが、大正10年の1300年の際には、それを成功させるために聖徳太子奉賛会という財団を立ち上げ、そこからの資金で成功に導いた。その財源は国債と満鉄の株で、戦争で紙切れ同然になった。
その当時、財界の人たちの説得に尽力してくれたのが東京芸大、昔の東京音楽学校であった。その方々の知恵により、昭和になって、戦後は法隆寺が資金を出したが、 財団はオウム事件まで続いた。あの事件で、宗教にかかわる財団は財政状況を徹底的に洗って、つぶすべきだとなり、閉鎖となった。
多くの文化財や寺を守っているのは行政や所有者だけではない。国民の財産だから国民が自発的に自分たちで守っていく。その機運を高めていく必要があると思っている。 私も70を超えているので残りの人生は10年もない。半世紀が過ぎたら知っている人間がいなくなる。引き継いでくれる若い人たちが守っていきやすい環境づくりが必要だと思っている。
吉野: 1400年の際に財源的なものを集める主体が難しいですね。
大野: 1400年御恩忌の法要がわれわれの仕事です、それは蓄えの中でできるが、 催事などの仕掛けはマスコミや識者の知恵を借りないとできないと思っている。
吉野: 法要だけでは、聖徳太子を継承していく大きな節目としてはもったいない。
大野: 読売は10年前からキャンペーンを行ってくれている。2020年には朝日新聞が日本博に合わせて東京国立博物館で展覧会を開催。ご遠忌の年である2021年には読売新聞が奈良国立博物館と東京国立博物館で開催。日本経済新聞社さんも何か考えておられるようだ。 3年先なのでまだ混沌としているが、その中で何ができるかを考えていきたい。聖徳太子に関しては奈良県も予算を組んでおり、斑鳩町も東京で講演会を行っている。
信貴山の本尊は毘沙門天で、聖徳太子が物部守屋と戦をしたときの四天王でもあり、楠木正成とも関係がある。 信貴山の仏像は法隆寺の僧がつくったことでもかかわりがある。
四天王寺には西門信仰があるが、日想観によく似たものが法隆寺と信貴山の間にもある。法隆寺の西側に昔は金光院という聖徳太子常念仏のお寺があった。薬師寺の僧が退居して、そこで日没に信貴山に沈んでいく夕日を拝んだという記事がある。
吉野: 聖徳太子は各所に足跡があるから、1400年ご遠忌を機に、難波津、難波宮、四天王寺、叡福寺、法隆寺などがつながるといいですね。インバウンドの表面的な観光客ではなく、国際交流のための観光、本物の、「光を観る」 文化体験で、深いつながりを創っていく事が大事だと思います。
大野: 物見遊山的な観光ではない。観光振興で世界遺産ではない。世界遺産になり、それを皆で守っていこうという機運が高まれば自然に観光はついてくるもので、先に観光ありきではない。
吉野: 面白くて、深いストーリーが必要です。
大野: 奈良や京都、自然遺産の知床などは、世界遺産になっても変化はなかった。もともと多くの人が集まるので、それに対するノウハウを持っていた。ところが、それ以外のところは、次の年に華が開き、翌年にはしぼんでしまう。町の人たちが自分の町自慢にならなければいけない。
吉野: 2021年か2022年に、それをつないで、単に歩くのではなくて深い中身、例えば各寺で連続講義やシンポジウムを開いて世界中の人に来てもらい、その人たちにも参加していただくようなことはどうでしょうか。
大野: 法隆寺の夏季大学で今年は、四天王寺の森田管長さんも来て下さる予定だ。7月26日から29日までの4日間です。法要の行列では、叡福寺と達磨寺、兵庫県の斑鳩寺、 明日香の橘寺から今までが出仕して下さっている。
昔は聖徳太子の朱印帳があって、それで回ったりする人もいた。四天王寺にもあって、それを復活させたいという話もある。
吉野: ルートづくりは大変調整が難しいが、メインルートを用意して深く体験してもらい、通えば通うほど面白く、リピートすることで深くなって、地域の人々とつながっていくような観光ルートができればいいですね。聖徳太子1400年ご遠忌の大成功を期待しています。
今日はお忙しいところ本当にありがとうございました。