【プロフィール】
佐々木 幹郎(ささき みきろう)
1947年奈良生。同志社大学文学部哲学科中退。
ミシガン州立オークランド大学客員研究員、東京藝術大学大学院音楽研究科音楽文芸非常勤講師を歴任。詩集に『蜂蜜採り』(書肆山田、 第22回高見順賞)、『明日』(思潮社、 第20回萩原朔太郎賞) など。 評論・エッセイ集に 『中原中也』 (筑摩書房、 第10回サントリー学芸賞)、『アジア海道紀行』(みすず書房、第54回読売文学賞) 詩集 『鏡の上を走りながら』 (思潮社第1回大岡信賞)など多数。
話し手:佐々木幹郎 先生
聞き手:吉野国夫(常務理事)
吉野: 本日はコロナ禍の真っただ中、ありがとうございます。 まず、初代大岡信賞の受賞、どうもおめでとうございます。また、文士の町大森をご案内頂き、高台の八景天祖神社と地獄谷の落差に上町台地夕陽丘と空堀の共通性を感じました。
大阪の河内や上町台地とのご縁が深いと思いますが、まず、上町台地の学校に通学されていた頃についてお教えください。
佐々木: 上町台地には高校がたくさん並んでいます。高津高校で父親が美術科の教師を長年やっていて、小学生のときに、父親に連れられて高津高校の文化祭や体育祭に行き、大きいお兄ちゃん、お姉ちゃんたちを見るのが楽しみでした。
戦争中、大阪に空襲があって、高津高校も被災したそうですが、その高校の窓から大阪城方向を向いた焼け野原の上町台地を描いた父の絵があります。その絵は、幼稚園、小学校の頃から見慣れた絵で、父親のアトリエの正面にいつも飾られていました。その絵が僕の中の上町台地の最初のイメージです。
吉野: そうすると、かなり悲惨な上町台地を覚えておられる。
佐々木: 半分、抽象画のような具象画という感じで描かれているので、悲惨さは感じませんでした。50号くらいの大きな絵で明るい色で描かれ、父親から説明を受けるまでは、それが破壊された終戦直後の上町台地の風景とは気づかなかった。それが、戦争が終わって上町台地が復活していく最初の風景だったのだと、僕の中で強く印象に残っています。 父親はそういう思いを込めて、題材に選んだのでしょう。
吉野: まさに戦後の復興から上町台地の風景が始まるのですね。
佐々木: 私は、大阪城の大手門の前にある大手前高校に通っていました。 ですから10代末は、毎日、大阪城の石垣を見て暮らしたと言ってもいい。冬になると体育の時間に大阪城をマラソンで一周させられたりして、放課後は大阪城公園で遊び、青春時代を過ごした思い出があります。でも私にとっては、上町台地の文化が面白いと思うようになったのは東京に来てからです。
吉野: そういうことってありますね。
佐々木:「都市の誘惑』 (TBSブリタニカ)という東京と大阪の文化を比較した本を書きました。都市として似ているところ、全く違うところをいくつかの項目に分けて、落語から歌舞伎、しょうゆ、看板などいろんな比較をやりました。近世の大阪人は上方という意識、上方が文化の中心であり、経済も大阪が中心。それが底にあったのに、近代に入ってからは銀本位制が金本位制になり、経済も東京 極になり、大阪の財界は一気に力を失った。そこからガラガラと大阪の経済力が落ちていき、同時に大阪が持っていた芸術・文化や誇りも忘れていくのです。
文化や芸術は大阪とは縁のないような感じがします。芸能は近世から近代にかけて力を持っていますが、現在はどうか? 芸術と文化というもっと幅広い視野をなぜ持てないのか。いつもそう思います。
吉野: 文化不毛の地とか言われますが、文楽にしても舞楽、能、落語など伝統芸能ではそれなりの厚みがあります。
佐々木: しかし、全国ベースでみると存在感があまりないという感じです。 東京と大阪を比較したときに、一つ大きなことに気づきました。上町台地の文化は今の地形で考えてはいけない。積み重なった最も底にあるものの意味を考えないといけない。古代の地形は、上町台地が南の方から上に岬のように突き出ていて、現在の河内平野や船場など周囲は全て海でした。
万葉集には、柿本人麻呂も含めて、いろんな人たちが 「茅渟(チヌ)の海」 を歌っている。その頃の海は、上町台地の北端、今の大阪城の先のところが入り口で、そこからずっと潟になっている海を歌っている。あるいは茅渟の海に落ちていく夕陽を歌っている。地形を通した見方をしないと上町台地の底に積もっている文化の記憶がよみがえってこないと思います。今、残っている表面的な現代の風景、地形だけで見ていくと上町台地と河内とのつながりも見えてきません。
吉野 : その話はシンポジウムでも出ていました。608年の隋使は日本に3か月ほど滞在するのですが、2か月は難波津の周辺で過ごし、新しい迎賓館や聖徳太子が建立した四天王寺でもてなしたようです。
最近の学説で、太子が斑鳩宮と難波津や四天王寺を往来した道が大和川に沿った八尾の渋川道であった。弓削道鏡の弓削宮遺跡も最近発掘されました。その横の大和川に沿って奈良県境の亀の瀬で一旦、陸路の竜田道になり、龍田大社につながります。
佐々木: 亀の瀬とは何ですか。
吉野: 亀の瀬は、昨年、日本遺産に登録されました。要するに、大和川の奈良県と大阪府の境目で、浅瀬になっている場所、亀石があって昔から有名です。実はここで聖徳太子が馬から下りて笛を吹いたら、信貴山の神様が猿に身をやつして亀石で踊った。そういう伝説があり、それが蘇莫者という舞楽で、四天王寺舞楽に今も伝わっています。
佐々木: 面白いですね。私が調べたのは、道明寺の周辺ですが、現在の新大和川と石川が合流する辺りは三角州になっていて、近くに日本で最初の大橋といわれる「河内の大橋」があった。あれは当時の日本にとって凱旋門にあたるでしょうね。
吉野: 柏原市の高井田辺りには河内六寺といって大きなお寺があって、川から船で来たときに立派なお寺、伽藍が並び建っている。今でいう高層スカイラインみたいな。そういう景色になっていた。だから外国から来た人はびっくりするわけです。
佐々木: 私は、藤井寺に住んでいたので、そのあたりは近かった。自転車でよく遊びに行った場所です。河内の大橋を歌った歌があって、大好きです。かつての大橋の近くで歌垣が行われたという記録があり、そこで歌われた歌が万葉集の第9巻にあります。高橋虫麻呂の「河内の大橋を独り去く娘子(をとめ)を見る歌一首」 です。
続日本紀には河内の大橋の辺りの風景や、歌垣に参加した氏族の名前も記録されている。その中の大半が東大寺の開眼会の舞楽と音楽をつかさどっている。それが藤井寺にいた葛井氏や船氏や津氏など渡来系の豪族です。藤井寺にはその豪族の名が地名として残っています。河内と上町台地はずっとつながって古代文化を濃厚に残しています。でも大阪の歴史は難波宮が滅んでから消えますね。
吉野: 大阪は建物だけでなく文書などもほとんど火災で焼失していますが、1499年に東大寺文書に出てきます。中世には熊野街道の発着点といわれる渡辺津や四天王寺周辺に7千戸の家があって賑わっていたそうです。7千戸で単純に一世帯5人としたら3万5千人の町があった。立派な学者がそう書いているからウソではないが、7千戸が本当かどうかで学説が分かれていますが...
それから約30年後の1532年には本願寺ができます。本願寺寺内町は往時1万人の都市です。
佐々木: 本願寺の遺跡は何もないでしょう。
吉野: 公園に石碑があるだけです。 本願寺にいきなり1万人の町ができるはずがないから、四天王寺にいた人たちが、歩いても20~30分だから、当然、商売になるのならと移転したり、別宅を設けてそこで商売をしたのではないか。と想像しています。
佐々木: 上町台地で大好きなのは夕陽丘という地名。上町台地から西に下りたら昔は海だったわけで、四天王寺の門前が極楽浄土の入り口だといわれていた。この日想観という思想は、平安から中世にかけてはやった。死期を迎えた人たちが台地の西側の崖に庵をつくった。その一人が藤原家隆で、塚が残っています。
今はマンションがあり、工場が大阪湾岸に密集していても、あの崖の地形は変わっていない。夕方には上町台地の東側から西の方向へ夕陽が落ちていく。このルートを歩いたら昔の日想観という信仰形態や、その感触が今でもわかる。あれは上町台地の地形が持つ貴重な遺産だと思います。
吉野: 上町台地最大の歴史的景観資産です。でも実際歩くと恥ずかしい景観もあります。
佐々木: 近代に入ると、谷崎潤一郎が関東大震災の直後に関西に移住します。 春琴抄では、佐吉が仕えていたお嬢さんが目を患って目が見えなくなって、お嬢さんのお世話をするために佐吉自身も針で自分の目を潰した。そういう物語。その春琴さんと佐吉の墓が夕陽丘のとあるお寺に葬られている。そのシーンから始まる。その墓はフィクションですが、今も夕日が照らしているように思えます。
近代に、上町台地で夕陽を歌ったといえば、大阪で小さい頃を過ごした三好達治です。三好治の有名な詩「乳母車」の中には、乳母車を押すお母さんに赤ん坊の主人公が「泣きぬれる夕陽にむかって/りんりんと私の乳母車を押せ」。そういう詩がある。「雪」という詩も有名で、「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。/次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」これは明らかに上町台地の上から、まち全体に雪が降り積もっていく、その風景ではないかと読み解きます。
この台地の地形が文学に与えた影響は、万葉集の歌の中からも近代詩の中からも、非常に多く取り出すことができる。そのことを大事にしなくてはならないと思います。
吉野: 今は、聖徳太子1400年忌が一つの大きなきっかけになるので、大阪には全国級の「古代の歴史がある」ということだけでも打ち出そう。とこの3月に 「聖徳太子まち旅シンポジウム」というのをやりました。聖徳太子往来の道を新しい巡礼の道にしようと提言しました。 608年に隋使が来たときの物語を創作講談で語ってもらい、河上麻由子先生 (奈良女子大学)の講演もしました。古代東アジアの研究者で、若くてしっかり研究もされていますが古代女子コスプレなどもやる面白い人です。
佐々木: こういう若い人たちが出てくるのはいいですね、ただ現在の大阪はこんなことをしても発信力がない。東京に伝わってこない。聖徳太子も大事なことだと思いますが、聖徳太子1400年といっても引っかかりがない。何でも聖徳太子になっているから、今さらで新しさが感じられない。例えば山岸涼子さんの『日出処の天子」はいい漫画だったので、こういうものを前面に出してはどうでしょうか?
吉野: 山岸さんには多くの世代に隠れファンがたくさんいる。最近レベレーションという6年がかりの長編を完成されました。
佐々木: 私は山口県出身の近代詩人、中原中他の研究を専門にしています。「新編中原中也全集」を角川書店から全6巻、私の責任編集で出しています。中也記念館をつくるときも最初からかかわって、今も運営協議会の責任者になっています。中原中也賞は、今年で二十六回目、今は現代詩の新人の登竜門になっています。その経験から漫画の話をしたのです。記念館では、中原中也及び小林秀雄、同時代の文学者の展示会を企画して入館者数は年間2万人いくかどうか。全国では多い方です。しかし、これをさらに突破する方法はないかと毎回、論議しています。
ある時から、あっという間に今までよりも2万人越えの人が来るようになった。なぜか。詩人や作家を登場させた漫画やアニメが登場したからです。清家雪子さんの漫画「月に吠えらんねえ」では、北原白秋から、中也、萩原朔太郎などキャラクターとして登場して、その連中が実際にはありもしない物語を展開します。
それまで詩に興味のなかった若い人たちに圧倒的な人気で、記念館でその漫画作者の原画を展示。それまで記念館には山口の湯田温泉に来また観光客がふらっと入る程度だったが、原画展を開くと当日の朝から10代の若者たちの行列ができていたそうです。
吉野 : それは中原中也のファンなのか、漫画ファンなのでしょうか。
佐々木: 漫画のファンです。漫画のキャラクタ一、その原画が見られる。それだけで集まる。それで入って中原中也の原稿などを見る。文学への入り口は何でもよいのです。入り口を漫画にしただけで関心が広がるのが現在です。若い世代もお年寄りも漫画が好きです。今はそういう時代ですから、若い人を巻き込むアイディアが絶対必要です。
吉野: 今回、創作講談の脚本をお願いした中野順哉さんは、バロック音楽で知られるオーケストラの代表をしていた人ですが、作家に転身して、声優劇の脚本も書いておられます。地方の市民大ホールで声優劇をしますとチケットは1時間で完売。全国から来ます。どんな田舎でも集客には全く困らないそうです。
佐々木: 今、声優の人気はすごいですね。聖徳太子が歩いた道を見る。いくつかの箇所で原画展をやる。それを見に行くツアーを企画する。アイデアはいくらでも出てくる。遊びは文化であるという事を思いだして、やるからにはもっと本気で遊ばなければいけない。
吉野: いい話を聞かせてもらいました。これからは本気で遊ぶよう心を入れ替えます。本日は楽しいお話ありがとうございました。