道頓堀と岸本水府、そしてグリコ
道頓堀と岸本水府、そしてグリコ
【プロフィール】
(一社)心学明誠舎理事・関西経済同友会幹事・財団評議員
宇澤俊記(うざわ しゅんき)
大阪府出身。一般社団法人心学明誠舎副理事長、朝日カルチャーセンター講師 政治と経済研究所副代表、関西経済同友会地域創生委員長代行。朝日新聞社旧友(元社会部記者)、株式会社全関西ケーブルテレビジョン元社長。編著『阿波おどりの世界』など。
「道頓堀の雨に別れて以来なり」 大正12(1923)年、川柳作家・岸本水府(1892-1965)が31歳のときの作だ。大阪で川柳雑誌「番傘」を発行し、川柳を文学に、とその革新運動を牽引した。この句は田辺聖子の評伝小説のタイトルにもなっている。
この年、道頓堀に大阪松竹座が誕生し、角座や中座など五座が並び、芝居小屋の入り口には電球看板、カフェーの店先には色ガラスの電灯が連なっていた。青春や盛り場への郷愁、回顧の心情がうかがえる一句。いつまでも色あせない。
水府は大正7(1918)年、新聞記者などを経て26歳で桃谷順天館に広告文案係として入社、2年後には福助足袋に移る。「足に関する展覧会」を企画し、大阪白木屋で浅草雷門の大草鞋などを展示して入場者の度肝を抜き、新聞にはクロスワードパズルを掲載、天神祭で「フクスケタビ」の電灯を付けた飛行機を飛ばした。
グリコの初代のネオン塔(「協同一致 Glicoグループ100年史」より)
昭和6(1931)年、11年間勤めた福助足袋を円満退社し、壽屋(いまのサントリー)に移る。壽屋広告部長当時の講演録が残っている。NHK大阪放送局はラジオで昭和7(1932)年4月1日から9日まで毎日(日曜を除く)午後6時半から30分間、商店講座『広告戦略』を計8回、放送した。
水府は5回目の6日、『広告文案』というタイトルで話をしている。広告文案の条件として
①目立つこと
②興味を持たせること
③商品への信用
――を上げた。
次いで文案家の心得は
①商品の性質を呑み込む
②広告読者を作ること――にあるという。文案の手段は①思い付き(いまのアイデア)②平易
③キャッチフレーズ(惹句)とスローガン(標語)
④ごく簡単に分かりやすく
⑤行き届かせる(誘導)
⑥忠実な嘘は許される(事実を想像してもらえる一種の誇張)
――など、それぞれ具体例を挙げながら発想の組み立て方を示す。とくに人に覚えてもらうにはスローガンは五七調とか七七調といったリズムを持っていることが得になるとした。
豆文広告(「協同一致 Glicoグループ100年史」より)
この年10月に水府は壽屋広告部長からグリコの広告部長に移った。グリコの創業者の江崎利一社長は大正11(1922)年、グリコーゲンを入れたキャラメルを分かりやすく「グリコ」と名付けて売り出す。「1粒3百メートル」のキャッチコピーも江崎が考えた。水府は商業の本質や広告の意義に精通している江崎に迎えられた。
田辺聖子の評伝小説によると、当時、森永製菓、明治製菓の宣伝合戦は熾烈を極めたという。森永の支店の前の電柱がすべて明治の看板に塗り替えられたりすると、今度は明治の工場の前の電柱が一夜のうちに森永チョコレートに塗り替えられるなど、宣伝合戦は果てしなくエスカレートしていた。そこに昭和8(1933)年9月28日、新聞にグリコの小さい1寸(3cm)角の広告が出た。カタカナで「グリコガアルノデ オルスバン」と書かれ、線描きの小さなイラストの入ったかわいい広告が登場した。新聞各紙に「コドモハカゼノコ グリコノコ」「グリコタベタベ カクレンボ」など紙面の隙間に短文の広告「豆文」を連日打つ。川柳で鍛えた平易で、明るく品の良いユーモアを含んだ巧みな短文は子どもの関心を惹起した。
昭和40(1965)年1月2日の戎橋。お正月休みでスモッグが消え、生駒連山が近く見える(玉田耕一郎著「チャンスを逃すな 私の報道写真」朝日新聞社刊)
いまや大阪の名所になったグリコのネオン塔が道頓堀に出現するのは昭和10(1935)年のこと。高さ33メートル、トレードマークのランナーとグリコの文字を6色に変化させ、花模様で彩ったネオン塔は毎分19回点滅した。もともとここには福助足袋の広告塔が建っていたが、グリコが譲り受けた。水府は同年、グリコを2年7カ月で退社し、川柳に専念することになる。
グリコのネオン塔は昭和18(1943)年、太平洋戦争で戦況が悪化して鉄材供出のため撤去される。復活したのは、昭和30(1955)年。当時、筆者は小学校3年生。道頓堀からすぐ北の周防町に住んでいた。ネオン塔を母親と弟の3人で見に出かけ、そのあと、法善寺で丼物を食べ、わくわくしたのを覚えている。
ネオン塔点灯の少し前まで心斎橋の「そごう」は進駐軍のPX(購買部)だった。御堂筋をアメリカ兵がサイドカーを付けたハーレーダビットソンで、わが物顔に走っていた。地下鉄の改札口に回数券を小分けにして切符を売る割烹着の婦人がいた。その横には募金箱を置き、松葉杖、義足にゲートルを巻き、カーキ色の軍服姿の傷痍軍人がアコーディオンを弾き、ハーモニカを吹いて義援金を募っていた。GHQの指示で軍人恩給が廃止されていたが、復活が決まると、そのうちに傷痍軍人の姿がなくなった。
グリコのネオン塔の前でポーズをとる外国からの観光客
心斎橋の大丸にエスカレーターもその年に復活した。戦時中、百貨店のエスカレーターも撤去されていた。グリコのネオン塔、エスカレーターの復活は大阪・ミナミの復興のシンボルだった。経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言するのは翌年のことだ。
いま御堂筋にかかる道頓堀橋、心斎橋筋にかかる戎橋はスーツケースを転がす海外からの観光客が溢れる。5代目のグリコのネオン塔の前では英語、中国語が飛び交い、外国人が両手を挙げ、記念撮影に余念がない。
岸本水府は昭和6年(1931)年、『京阪神盛り場風景』(誠文堂書店)に「東京の銀座、まことによい、しかし花やかな灯をうつす川がない、芝居がない。・・・京都の四条通、新京極もよいが、何処かに制限された盛り場の感がある。そこへ行くと南地は、大阪の南地は、銀座、新京極に比べて、飛びぬけたところを持ってゐる。風情から云ってあの道頓堀川が何と云ってもあたりを活かしている」と書いた。「道頓堀の雨に別れて以来なり」と詠って百年。いまや「風情」の欠片もない。川と橋を情感込めて詠い上げた水府はいまのこの光景をどう詠うのか聞いて見たくなった。
(文責・宇澤俊記)