大阪地域振興調査会セミナー2026 共催:JUDI都市環境デザイン会議関西会議
グローバル都市化における「よそ者」の移住と共存を考える
―5,300年前の都市成立から変わらない現代都市の居住環境整備のあり方とはー
グローバル都市化における「よそ者」の移住と共存を考える
―5,300年前の都市成立から変わらない現代都市の居住環境整備のあり方とはー
特別スピーチ:【Zoom】メソポタミア文明の都市における「よそ者」の意義と役割
小泉 龍人 NPOメソポタミア考古学教育研究所 代表
キーノート:「古代インダスが示唆する文明史観と都市について」
小茄子川 歩 京都大学大学院 アジア・アフリカ地域研究研究科 特任准教授
パネラー:岡井 有佳 立命館大学環境都市工学科教授
モデレータ:岡 絵理子 JUDI関西 関西大学環境都市工学部建築学科 教授
問題提起: 吉野 国夫 ダン計画研究所 会長
世界は今、都市への人口集中、グローバル都市化が進行し、都市居住の問題が噴出しています。現代都市が抱える問題が、実は、人類初の都市が成立した5,300年前から根本的には変わっておらず、「よそ者」が都市の発展を支えると共に深刻な問題も引き起こしています。
本セミナーは、近年学術的成果の目覚ましい古代都市文明を起点に、国際化が避けられない大阪をケースにグローバルな視野から課題を探り、今後の都市計画や拠点開発のあり方について考える考古学者と都市計画専門家の対話の場となることを目指して開催しました。
東京生れ。NPO メソポタミア考古学教育研究所(JIAEM)代表、明治大学研究・知財戦略機構客員研究員、早大、慶大、明大などで非常勤講師。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。1988 年よりシリア、エジプト、トルコ、イラク等で考古学研究調査。2015 年国立科学博物館特別展「ワイン展」学術協力。2018 年 NPO 法人立上げ、日本・イラクの若い世代への歴史教育を目的として活動。主著『ワインとビールの考古学』(同成社)、『都市の起源』(講談社)ほか。専門分野はメソポタミア考古学、比較都市論、実験考古学、古代ワイン。
1981 年宮城県生まれ。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科・特任准教授デカン大学院大学考古学学科 Ph.D. 課程修了(Ph.D.)。日本学術振興会特別研究員 PD、人間文化研究機構総合人間文化研究推進センター研究員を経て、2022 年より現職。専門は文化人類学、南アジア考古学、比較考古学。著書『インダス文明の社会構造と都市の原理』(同成社)で、第 6 回日本南アジア学会賞受賞。共編著に『社会進化の比較考古学――都市・権力・国家』(雄山閣)、『考古学の黎明――最新研究で解き明かす人類史』(光文社新書)、共著に『NHK 3 か月でマスターする MOOK もっと深く知る古代文明』(NHK 出版)、共訳書にデヴィッド・ウェングロウ著『文明論――古代近東と西洋の未来』(以文社、近刊)。
京都府生まれ。立命館大学理工学部教授、専門分野は、都市計画、都市政策。建設省(現、国土交通省)入省。パリⅩ大学都市整備・地域開発高等専門研究課程修了、パリ・ラ・ヴィレット建築学校客員研究員、OECD(経済協力開発機構)、パリⅠ大学パンテオン-ソルボンヌ都市地理学研究所(CRIA)客員研究員を経て現職。著書:「フランスの広域行政組織~都市計画の権限における役割~」(田中宏編著『協働する地域』、晃洋書房)、「フランスの広域計画」(大西隆編著 『広域計画と地域の持続可能性』、学芸出版社)など。
大阪生まれ。大阪大学大学院博士後期課程修了。大阪大学大学院講師を経て、2006年より関西大学勤務、2016より現職。専門領域は住環境学、都市計画。博士(工学)。著書に『市民自治の育て方:協働型アクションリサーチの理論と実施』(関西大学出版部、2018)、『和室学』(平凡社、2020)、『鉄道と郊外』(鹿島出版会、2021)、『和室礼讃』(晶文社、2022)他。研究室として新しい住環境価値を見出すための調査研究や社会実験に取り組んでいる。
大阪府生まれ。都市政策・都市づくりのシンクタンク、㈱ダン計画研究所代表を経て、現在会長。(一財)大阪地域振興調査会常務理事。近年、イラク古代遺跡を訪問。
写真1 会場風景
司会:小西 久美子(大阪ガスネットワーク株式会社CELエネルギー・文化研究所)
私はJUDI関西の小西と申します。定刻になりましたので、一般社団法人大阪地域振興調査会2026セミナーと、2026年第3回都市環境デザインセミナー共催の「グローバル都市化における「よそ者」の移住と共存を考える」を始めさせていただきます。
まず、主催者を代表してJUDI関西の前田からご挨拶いたします。
開会挨拶:前田 裕資 (出版・制作・編集室主宰、元学芸出版社社長)
本日はご来場ありがとうございます。都市環境デザイン会議は都市環境デザインに関わる新しい職能組織として1991年5月に結成されました。主な分野としては、建築、造園、都市計画に係るデザインと設計分野の専門家、大学、企業、行政などのメンバーで構成されています。昨年はフォーラムを開催し、通常年に6~8回セミナーを行っています。本日はセミナーの一環として共催させていただきます。
モデレーター:岡 絵理子(JUDI関西 関西大学環境都市工学部建築学科教授)
本日はまず、DAN研究計画所会長、吉野さまから問題提起をいただき、ついで神奈川からZoomで、古代メソポタミアの都市研究の第一人者である小泉龍人先生に「メソポタミア文明の都市における「よそ者」の意義と役割」として、ご講演をいただきます。
次に、気鋭の考古学者小茄子川歩先生に、「初期インダス文明が示唆する都市文明の現代的課題」を提示いただき、京都・大阪・滋賀で活躍されており、フランスの都市計画、都市政策にも精通されている立命館大学の岡井有佳先生、吉野さまも入っていただき、「グローバル都市化におけるよそ者の移住と共存を考える」というテーマでパネルディスカッションを行います。最後に、小泉先生、大阪府、大阪公立大学、デベロッパーの方々からもコメントをいただく予定です。
吉野 国夫 (株)ダン計画研究所 会長
このセミナーは、グローバル都市化が世界を覆っている中で、「よそ者」に着目して移住あるいは共存をどう考えるか、という課題を背景にしている。
私が昨年11月にイラクのウルク遺跡という、5300年前の人類初の都市遺跡を訪問した事が直接の契機となった。また、トルコの12,000年前の神殿跡にも行ったが、都市という観点からすると、人類は5000年間それほど変わっていない、という実感があった。そうであれば、古代都市とグローバル化している現代都市の最先端の問題を考古学と都市計画の専門家による対話をすれば、新しい景色が見えてくるかもしれない。という意識から、やや唐突とも思えるセミナーを企画した次第である。
では、そもそも都市とは何か。今から10年前に出版された小泉龍人先生の『都市の起源』という本に出合った事が原点にある。その中で、都市の成立には「3つの指標」で定義できるとあって、それは①都市計画②行政機構③神殿である。これはすごいことだと感じ、都市計画の専門家の反応を調べたがあまり本格的な議論ができていなかった。当時と今を較べると、グローバル都市化や資本主義社会、AI社会の文明論的ともいえる時代の激変がある。このセミナーでは従来の文明史に根本的な異議を唱える小茄子川先生にも参加いただき、最先端の都市計画専門家と議論して頂くよう企画した。
私なりに都市とは何かと考えると、やはり「人が集まって住む」ことが基本にある。しかし、グローバル都市化が起こる中で、都市に住めないという状況が、ニューヨークやベルリンなど、世界の大都市で発生している。日本は人口減少だから大丈夫だといっていたが、それだけではすまないだろう。大阪市は人口が増加しており、社会増が全国トップだが外国人が7割を占めている。全員が住めないのではなくて、特定の層が都市に住めなくなる。これがこれから大きな問題になってくる
また、世界の大都市をめぐっては、ニューヨークのマムダニ旋風など世界的に新しい民主政権の市長がどんどん出てきた。都市居住についても従来とは違った考え方が入ってきている。人新世、AI時代の急進、シンギュラリティ(技術的特異点)のことを考えると、文明史観自体を問い直さなければならないのではないかという思いがある。
「よそ者」とは何か。というテーマだが、昔からまちづくりのイノベーションは「若者・バカモノ・よそ者」が起こすと言われてきた。では、どういう人のことをよそ者というのかを3つのカテゴリーで考えると、「高度人材とならず者」、が議論されているが、高度人材に於いては交易、金融、文化、先端技術等々があるが、ならず者になる可能性もある中間層をどのように受け入れるかで社会の安定が図られる。よそ者は隔離するのか、よそ者と交流するのか、融合するのか。その方向を今こそ考えなければならない。
図1 よそ者のボリュームゾーン
以上が問題提起。この後、イラクとトルコ古代遺跡の現場をご紹介したいと思っていたが、時間が足りないので何点かスライドを見て頂いて雰囲気を感じて頂きたいと思う。詳しくは財団のホームページにあるので、覗いて頂きたい。
小泉 龍人 NPOメソポタミア考古学教育研究所(JIAEM)代表
私の発表はメソポタミアのウルク遺跡等、今から数千年前の古代文明における都市を手がかりにして、都市そのものを考えていくことである。
5000年以上前に都市ができたというあたりについていうと、まずは快適な空間がつくられていく。途中でよそ者が登場してくる。さらには、よそ者を巻き込んで、よそ者と共存して都市が成り立っていく。という流れがある。
オリエント世界の範囲は、西はエジプトから東はアフガニスタン、北はジョージアから南はイエメンに至る地域である。真ん中あたりがメソポタミアの地域。現在の国ではイラクの大部分に相当し、シリア、トルコ、イランの一部にまたがっている。
図2 メソポタミアの位置
まず、第1章で解説する都市化前半「快適さを求めて」は今から7500年前に起きたが、当時、安定した暮らしがしばらく続いていた。この時期のことを気候最適期と呼ぶ。
西アジアにおける銅石器時代、今から約7500年前にウバイド文化が栄え、この頃に気候が安定して都市化、都市誕生に向けて走り始めたことがわかっている。
都市形成期は全部で2500年くらいで、前半、メソポタミア周辺の農耕・牧畜が発明された起源地で定住生活していた人たちが、何らかの理由があって無人のメソポタミア、特に南メソポタミアのシュメールの平原地帯を開拓した。誰もいないところで居を構えるので、当然、暮らしを工夫しなければならない。すなわち快適な空間をつくり始めるといった行為そのものが都市化の始まりとしてとらえることができる。
では、具体的に、どのように快適な空間づくりが可視化され、考古学的な資料で確認できるのか。一番わかりやすいのが水まわりの設備。現在でも水まわりは重要視されているが、古代においても変わらない。例えば、都市化前半段階のいくつかの遺跡において空閑地(一見、何もない空き地のように見えるが、有効な空間利用がされている場所)排水を流す土管が地面の下に埋められた形で発見されている。また、別の遺跡では、集落の端部に直線状の溝や石敷き面が構築されて、集落の中にこもりがちであった湿気を外に逃がす工夫がされていた。
これが主な下水対策。では上水はどうしていたか。実は川の水は飲んでいなかったようだ。自分で発掘したトルコの遺跡では住居から井戸を発見した。目の前にティグリス水系の川があるにもかかわらず、井戸を掘って地下水をくみ上げて上水として利用していた。
こうした水まわりの工夫が考古学的に確認され、快適な空間づくりがされていた。
神殿とフラットな人間関係
このような目に見える特徴と合わせて、目に見えにくいメンタルの部分が神殿になでの儀礼である。メソポタミアの都市化において、特徴的な建築物として神殿が登場した。シュメール地方で今から7000年前に建てられた典型的な神殿プランは、参拝口が平入り左になっており、動線が折れ曲がっている。つまり直進動線ではないので、人々間と神様の距離感が意図的に演出されている。
メソポタミアの神々は基本、星や星座に宿るという思想があった。日々、神々は人々と接する機会がないので、建築様式においても神々と人間は違うということが明確に表現されている。
おもしろいのはニセの扉、偽扉。扉の装飾がされているだけで、通り抜けることはできない。星や星座にいた神様が、用があるときに地上に降りてくるときの目印として祭壇のすぐ後ろにニセの扉がある。これは神様専用の出入り口。こうした神殿が普及するということは、神殿で祈りをささげる行為だけではなく、神殿における儀礼行為を通じてコミュニティのメンバー間で人間関係が円滑になるといった効能も十分考えられる。これも快適な空間づくりの1つといえる。
当時の経済状況についても触れておく。都市化前半段階の人間関係は極めてフラットだった。例えば集落で、共同で畑を耕し、主にムギを中心とした穀物を収穫していたが、当然、その年には食べきれない分の余剰食糧が発生する。こうした余剰食糧は集落の中の公共施設や神殿の脇の小部屋、公共施設がない場合は小型の独立した倉庫に供託されていたようだ。特徴的なのは、いずれも鍵がかかっていないアクセスフリーの倉庫で、いつでも誰でも出入りは自由であった。お互いに知った顔同士が生活していたわけなので、平等主義的な社会が展開していたようだ。特にはっきりとした格差は確認されていない。
それがあることを要因に大きく変わる。第2章の「都市化後半」で、きっかけの1つになったのが、今日のセミナーのテーマである「よそ者」の登場である。
今から6000年前、都市化前半段階が終わって後半段階が始まる、まさにその初頭に全世界的に起きた気候変動があった。陸地上の氷河が溶けて、より海水面が高くなるという現象で、日本でも「縄文海進」として知られている。
海水面が上昇することによって、特にペルシャ湾の河口付近で暮らしていた農耕民に深刻な影響が及ぼされた。シュメール地方の畑は基本、灌漑を導入して栽培していた。灌漑とは高い所から低い所へ水が流れる装置。ところが、水位が上昇すると下手に灌漑が流れにくくなってしまう。
こうした灌漑システムの機能不全が生じると、ムギそのものに水が供給されないだけでなく、ムギを育てる土の中に多く含まれる塩基分を洗い流す脱塩機能も低下してしまった。結果的に、塩害が徐々に発生してムギが少しずつ枯れていき、そこでは暮らせなくなってしまった。
よそ者の移住と都市の成立
河口付近で暮らしていた人たちは「よそ者」として他の集落に移住しなければならなくなった。どこに向かったかというと、海水面が上昇してもさほど影響を受けず、また、倉庫には余剰食糧がたくさん保管されている、安定した暮らしが行われていた、都市的な性格を持つ集落ですある。実はこうした人の動きが都市化の進行に拍車をかけたようだ。
よそ者について触れているが、ここを深掘りする前に、都市化前半段階でのフラットな人間関係、平等主義的な社会について、お墓の点から補足しておきたい。
私が1980年代にシリアで発掘した、今から7000年前、都市化前半段階の一般の人々のお墓。横向きに屈葬され、頭の先にレンガの枕が置かれ、足元に生前使っていたと思われる食器としての土器が複数副葬されていた。特徴的なのは、墓室の入り口にレンガが積まれ、墓室の入り口が閉塞された構造を特徴とする。
都市化前半の墓は、どこの遺跡でもまったく同じような特徴を示している。ところこれが実はよそ者が現れると大きく変化する。例えば、入り口をふさいでいたレンガの端に壁が付け足される。また、お墓の中にはそれまでは大人が一体だけだったのが、複数の遺体(3体以上)が合葬されるようになる。
これはどうやら、集落の中によそ者が共存したことによって、同族意識の強化が、出身差の違いとして表されたようである。出身が違うよそ者が埋葬されたときには、地元の人たちとは違う墓の構造や埋葬の仕方で表現された可能性がある。
同時に、よそ者が現れると、特定の墓には日常生活用品以外のものも副葬されていく。いわゆる威信財という特別なもので、日常生活に関係ない品物が副葬されており、その人物は生前コミュニティで十分な役割を果たした。つまり社会的な地位を獲得した者が登場し、階層化の出現が墓から見えてくる。
よそ者の中には、よからぬ考えを持つ「ならず者」もいたようで、「あの集落に行けば食い物があるから襲ってしまえ」という輩が出てきたとみられる。そうすると、余剰食糧を豊富に保管していた集落の人たちは、自分たちの街を守る必要が出てくるので、防衛のための手段として城壁をつくり始める。これが約6000年前。海水面が上がるタイミングとほぼ同じ頃に、防御施設としての城壁が登場する。
その後500年くらいたつと、本格的な敵を攻撃するための武器が登場。シェイク・ハッサン遺跡(北シリア)では、城壁のすぐ内側に武器庫が発掘されている。その後、200年たつと、5300年前、世界で最古級の都市が誕生した。
吉野さんが写真で紹介してくれたウルクの遺跡(南イラク)とほぼ同時期に、北シリアに小ぶりの模倣都市「ハブーバ・カビーラ南」(現代名)がつくられた。この都市遺跡は、立派な城壁があって等間隔に見張り塔まで配置されている。
ここで戦争について触れると、ウルク遺跡ではハンコが粘土に押された印影資料が見つかっていて、重要な情報が詰まっている。右端の人物は槍先を地面に向けて立っている。この人物は都市の支配者と推定されており、槍先を地面に向けているので相手に対して殺意はない。つまり戦争が終わった、戦いが終わった後のシーンを示している。左側には、先頭に手を合わせてお願いをしているポーズの人物がいて、後ろには手を縛られた人物が4人描かれている。これらの人々の間にムチのようなものを持った2人の人物が立っている。つまり、このシーンには、戦争に勝った側が3人、負けた側が5人描かれている。負けた側の先頭の人が、「お願いです。殺さないでください」と命乞いをしている場面として研究者は解釈している。つまり、5300年前に都市が誕生するまでには、捕虜が発生するような戦争が起きていたと研究者はとらえている。
よそ者の中で協調性のある集団が都市的な性格を持つ集落で共存するようになり、やがて都市が誕生していく(第3章「都市の誕生」)。ならず者対策として城壁ができると、その内側はどう変わったのか。
都市化前半段階に話を戻すと、集落の中に決まった配置の規則性はなかったようだ。やがて、よそ者が現れる都市化後半段階になると、建物の外壁が直線状にそろってくる。最初に土器敷き、石敷きのようなストリートを建設し、ストリートに沿って細かく区画を分けて計画的に建物を配置。1つ1つの区画には、それまでには見られなかったような新たな性格の施設が建てられた。これがやがて都市そのものへとつながっていく。
計画的なレイアウトが設計された都市化後半段階は、まだ都市にはなりきれていない、都市誕生の手前である。これが数百年の時間がたって、ハブーバ・カビーラ南のような都市へとつながっていく。ハブーバ・カビーラ南の全体図を見ると、街の真ん中に目抜き通りが走り、すぐ東側を流れるユーフラテス川に並行している。川の流れる方向を軸線とした目抜き通りの南に行くと、丘の上に神様をまつる神殿が建てられている。また、目抜き通りの周辺には一般の人々が生活する市街地が形成されている。
さらに、興味深い点としては、街の北側に土器を焼く工房等が配置されている。このエリアは現在でも風下側に位置する。古代も現在も風向きはそれほど変わらないという前提に立つと、煙がモクモク出てにおいがきつくなる、ゴミ焼却場のような工房を街のド真ん中に配置するわけにはいかないので風下に配置していた。よく考えられた快適な空間づくりになっている。5300年前にこういうレイアウトが完成している。
新たな性格の施設で特に注目されるのが、余剰生産物などを管理する倉庫。これが鍵付きに変わった。それまでは鍵がかかっていないアクセスフリーだったが、なぜ鍵がかけられるようになったか。
協調性のあるよそ者が大きな集落で共存が認められたわけだが、よそ者であることには変わりなくて、価値観の違う人たちである。例えば、今年は日照りが続いてムギの収穫量が少ないから来年のために多めに種もみを取っておこうとなったときに、これまで地元出身の人たち同士で協業していたときは、そんなことは言わなくてもわかっていた。ところが、よそ者は微妙にその間合いがわからないので、悪気がなくてもついつい多めにムギを持っていってしまう。こういう小さなトラブルが積み重なっていったと想像される。そこで、集落の人たちは、大事な余剰食糧などを勝手に持っていかれないように、鍵をかけて管理する必要が出てきた。
これは実際に発掘された資料をもとに私が復元したイメージ図。倉庫の入り口の扉に穴を開けてひもを通す。壁本体に杭を打ち込んで、ひもをグルグル巻きに縛る。ひもの結び目のところに泥をペタッと貼る。これがドア封泥。泥が乾く前にハンコで印影を押して、これで封印装置が完了する。
図3 倉庫のドアに押印された封泥が出現
どうやら、印影のもとになるハンコを持っていた人物がリーダー、指導者になっていたようだ。都市化の後半段階、よそ者が現れると指導者が出てくる。まさに「鍵を握る人物」が出てきた。これが大きな特徴になる。倉庫は事前に指導者の許可を得てから開ける。勝手に開けた場合はとんでもないことが待っている。そう言い含めたうえで、抑止効果を持たせた封印装置と考えられている。
よそ者の中のならず者対策として城壁ができたり、計画的なレイアウトがつくられたり、鍵付きの倉庫が出てきたり、本格的な都市化の要素が1つの空間にギュッと固まって現れる。これが都市だ。
よそ者の移住とゾーニング
いったん都市が出来上がると、メソポタミアはフラットな地形で、周囲から簡単にアクセスできるので、街に行けばうまい食べ物がある、おいしい酒が飲める、いろんな仕事があると、わんさか人が集まってくる。現代の構図と何ら変わりない。さらなるよそ者が集中して人口がますます増えていく。そこで、多様な価値観の集団が共存できる巨大な居住空間が必要になる。
都市の支配者側の対応としては、全体プランのもとで個別プランを計画的に配置する必要が出てくる。具体的には街区を形成、すなわちゾーニングを設定する。これによって多様なよそ者をそれぞれの区画に住まわせることが可能になった。
参考までに、これは現在のシリアの首都ダマスカスのゾーニングの例である。イスラーム時代に出来上がって現在に継承されているが、古代ギリシャ時代にダマスカスの街並みが大きく再編された。宗教は変わるが、2500年以上前の街並みが現在に息づいている。
現在の街並みを見るといくつかのクオーターに分かれている。壁がなくて単なる小道があるだけだが、例えば、北西のエリアはウマイヤ・モスクを中心としたイスラーム教徒が生活しているゾーン。北東の区画にはカトリックの教会を中心としたキリスト教徒のゾーンがある。さらに南東の区画にはシナゴーグを中心としたユダヤ教徒のエリアがある。多様な価値観は宗教の違いで、信じる宗教の違いによって住むクオーターが違う。その典型的な事例で、西アジアでは他にも似たような例がある。
さかのぼっていくと古代メソポタミアにたどり着く。この図は都市プランの源流と言われる4000年前のウル遺跡。4000年前の街並みを見てみると、ユーフラテス川に沿って設定された軸線(目抜き通り)に沿って市街地が配置されている。市街地が実際に発掘されている。きちんとした区画にはなっていないように見えるが、昔ながらのランダムな特徴を活かした住みやすい居住区が、そのままの状態で埋め込まれている。おそらく他のエリアにも似たような街区が形成され、出身の違うよそ者がそれぞれコミュニティを形成すべく、ゾーニングが設定されてそこで生活を始めたのではないかと想像される。
さらに1000年ほどさかのぼるとウルクの街につながる。残念ながら、ウルク遺跡は神殿を中心とした聖域のみが発掘されており、市街地はまだ発掘されていないので、今後の調査の成果に期待したい。
私が2017年に訪問した際、前年からドイツ隊が調査を再開していたと聞いた。地元の方の話では、考古学調査、遺跡の修復・保存にとどまらず、世界中からやってくる調査隊・見学者用の宿泊施設の建設、商業施設の建設など、25年計画のプロジェクトが始まっている。アコモデーションやカフェ、レストランの建設が始まっていること自体、当該地域の治安が劇的に回復していることが肌感覚でわかった。
最後に、この写真を注目してもらいたい。ウルク遺跡の周囲を取り囲んでいる外柵は、2004年に日本の陸上自衛隊の皆さんがイラク人道復興支援のために現地に派遣された際、地元の部族の方々と協力してつくった遺跡保護のフェンスである。世界最古の都市遺跡は陸自の皆さんのおかげで盗掘されずに守られている。これが現実である。
ご清聴ありがとうございました。
司会:小泉先生ありがとうございました。続きまして、パネルディスカッションに入ります。まず、小茄子川先生から話題提供をお願いいたします。
小茄子川歩 京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 特任准教授
わたしの発表はすこし抽象的な話になるが、この後のパネルディスカッションでいきてくる内容だと考える。カール・マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』にあるつぎの一文は、〈都市〉を考えるにあたっても、とても示唆ぶかい。
われわれはみずからの歴史をつくる。とはいえ、じぶんの選択した条件のもとにおいてではない。
わたしはインドで、インダス〈文明〉遺跡ラキー・ガリーの発掘調査に参加してきた。およそ300haを測るすごく大きな遺跡で、印章なども出土したし、墓地も発掘された。インドの考古学者はみずから発掘した遺跡の面積が大きいと「これは都市だ」と主張しがちであるが、いうまでもなくそんな単純な話ではない。
デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングロウの共著『万物の黎明――人類史を根本からくつがえす』(酒井隆史訳, 光文社, 2023年)は、〈都市〉を考えるにあたってもとても重要な文献である。現在、この大著の序章ともいえるデヴィッド・ウェングロウの著書『文明論――古代近東と西洋の未来』(酒井隆史・小茄子川歩訳, 以文社, 近刊)も訳しているところで、2026年11月頃に公刊予定だ。
もう一つの〈文明論〉
人類史における都市といえば、だいたい「進歩史観」を前提に語られる。小さな農村から始まって、徐々に社会が複雑化し、その過程で都市が成立する。そしてやがて文明や国家という段階に到達する。わたしたちは、そのような「進歩史観」を何の疑いもなく受け入れている。
とはいえ、それは〈文明〉の一側面を語っているに過ぎず、現在、「進歩史観」にもとづく文明理解そのものが問い直されている。問い直していくと、既存の都市のとらえ方も変わってくる。人類史は「人間の自由な営みの歴史」であり、それは現在でも、過去においても変わらない。
「進歩史観」を脱却したもう1つの〈文明〉にもとづけば、〈都市〉はどのように問うことができるか。既存の都市論は、古代〈都市〉の一側面をわたしたちに教えてくれているに過ぎない。たとえば後でみるように、わたしが研究しているインダス〈文明〉の〈都市〉は、〈都市=バッファ〉として考えることができる。
王のいない〈都市〉
関雄二先生(国立民族学博物館館長)が研究されているアンデス文明は、〈都市〉や「国家」が出現する前に、3000年間も、神殿をつくり続けていた。インダス〈文明〉の場合は、〈都市〉はつくられるが、それが「国家」に至るわけではない。
地球の各地域に住んでいた人びとが、それぞれの〈状況〉にもとづいて、さまざまな社会のあり方を想像・創造するのは当たり前。つまり各年代・地域で想像・創造された〈都市〉もバリエーションをもっている。〈都市〉を画一的なものとしてみるような既存の「常識」を頭の片隅からよけてみれば、人類史における〈都市〉はより多様に語れるようになる。
インダス〈文明〉には〈都市〉はあり、未解読だが文字もある。印章や石製おもりもあり、それらが示すように交易システムもある。もちろん外部社会とのつながりもあるが、中央集権的な社会構造はみえてこない。王様も存在しないし、王墓も発掘されていない。
「これから出てくるのでは?」と言われたらそれまでだが、100年間、発掘しても出てきていないので、考古学的には「ない」という見解が今のところ正しい。明確な神殿もないし、武器も軍隊もなく戦争もない。それらの存在を示すような痕跡が不在なのである。
わたしたちは〈文明〉というと「進歩史観」で考えてしまうので、文明社会にトップダウン式の統治構造がないのはおかしいと考えてしまうが、インダス〈文明〉にはトップダウン式の統治構造がみえてこない。
しかし〈都市〉はあるので、それらの〈都市〉がどのように運営されていたのか、が問題となる。これまでとは違った見方、問いの立て方が必要になってくる。
もう1つの〈文明〉とは何か? 贈与論で知られるマルセル・モースの文明論を基礎とし、『万物の黎明』で展開された「進歩史観」にもとづかない〈文明〉の考え方である。この〈文明〉はいったい何を意味しているのか?
最近では歴史学者ジョセフィン・クインも同様な〈文明〉観を提示し注目されているように、もう1つの〈文明〉のとらえ方でもって世界史・人類史を語り直す、という動きが世界的にポピュラーになってきているように思う。
では、どのようにもう1つの〈文明〉を考えていくのか。モースは、次のように言っている。
わたしが関心をいだいている観点から見ると、文明の歴史は一つひとつの社会が蓄積した多様な財や知が社会のあいだで流通してきた歴史である。(中略)社会というものは、いわば文明という風呂のなかにどっぷりと浸かっているものなのだ。社会は借用の可能性によって定義されるよりも、むしろ借用の拒絶によって定義される。(モース 2018: 187)
この説明だけでは、分かるようでわからない。ごく簡単に説明すると次のようになる。わたしたちは地球に生きていて、一つひとつの社会はさまざまな〈状況〉のもとにある。それぞれの社会は、独立して存在しているわけではなく、つながっている。「財・知・価値の広域流動システム」によって常に結びついている。
なぜなら人間は移動し、交流するからだ。モースはこの広域の流動システムのことを文明、または文明現象と呼んだ。「超社会的な集合的相互作用そのもの」を文明といっているわけだ。これが、もう1つの〈文明〉である。
わたしたちは、〈文明〉という財・知・価値の広域流動システムを行き来するさまざまな情報を、ときには借用し、ときには拒絶する。自覚的な選択によってである。ただし拒絶する〈状況〉も、拒絶の仕方もさまざま。だから多様な社会の形態あるいは〈文明〉の形態を、わたしたちは人類史のなかにみることができる。
この見方の一番よいところは、社会形成などを語るときに「進歩史観」に拠らなくてもよいということ。つまり社会形成を明確な境界線をもつ特定の地域内における直線的な進歩・発展のモデルではなく、超社会的な集合的相互作用の力学のうちに説明できるようになる。「進歩史観」にもとづく文明史観・人類史観から脱却するための一つの分析概念として、いま、このように〈文明〉を語ろうという動きが出てきているのだ。
グレーバーとウェングロウは、『万物の黎明』のなかで、〈文明〉について、つぎのように言っている。
ひとつの問題は、「文明」とは起源において、端的に「都市で暮らす習慣」であると、わたしたちがおもい込んでしまうようになったことだ。ひるがえって、都市とは国家を含意しているともみなされてきた。しかし、これまでみてきたように、歴史的にも、語源的にもそうではない。「文明」という言葉は、ラテン語の civilis に由来しているが、これは実際には自発的連合による組織化を可能にする政治的知恵や相互扶助の特性を意味している。(中略)相互扶助、社会的協働、市民的活動、歓待(ホスピタリティ)、あるいはたんに他者へのケアリングなどが真に文明を形成しているのだとすれば、本当の意味での文明史の叙述は、いまはじまったばかりなのである。(グレーバー、ウェングロウ 2023: 492)
もう一つの〈文明論〉と〈都市〉
くりかえしになるが、このもう一つの〈文明〉論にもとづくのであれば、既存の人類史観・文明史観をどのように乗り越えることができるのか? 〈文明〉のなかで生きているわたしたちは、その〈文明〉を借用・拒絶することによって、さまざまな社会形態あるいは〈文明〉の形態を、みずからの意思で想像・創造することができる。
そうであるならば、わたしたちは、人類史のなかに、「例外なく例外が存在する」がごとく、多様な〈文明〉の形態を発見することができるはずだ。
あるところでは〈文明〉の形態が神殿だったり、またあるところでは〈都市〉だったりする。メソポタミア文明であれば、南メソポタミアの〈状況〉にもとづき都市ができる。インダス〈文明〉であれば、インダス平原の〈状況〉にもとづいてまた違った〈都市〉ができる。
わたしたちは試験管のなかで生きているわけではない。人類史においては、さまざまな〈都市〉が存在する。これを前提として、〈都市〉を語っていくことが重要だ。
では、どのように問いを立てるべきか? ここではカール・ポランニーの「人間の経済」にならい、二つのタイプの市場から考えてみたい。一つは資本主義にもとづく市場、もう一つは近代以前の資本主義にもとづかない〈市場〉だ。古代都市を考える場合は、資本主義にもとづく市場でなく、近代以前、つまりポランニーがいう〈本来的な市場〉についてみていかなければならない。
二つのタイプの市場では、そのメカニズムはどのように異なるのか? 現在の市場は、基本的に「量的等価原理」にもとづく。モノの背景にあるさまざまな〈状況〉を無視して、とにかく数学(マス)で把握する。そういう意味での等価原理である。
いっぽう近代以前の〈市場〉は、基本的に「質的等価原理」にもとづく。1、2、3、4、5と数字で数えるのは「量的等価原理」と同じであるが、モノの背景にあるさまざまな〈状況〉を無視しない。「質的等価原理」は、固定化された権力や暴力の構造を生みだすのではなく、社会の平準化・平等の原理として働く。
図4 バッファとしての都市とは
最近注目されているマイケル・ハドソンは、「混合経済」という考え方を提示している。古代都市においては、互酬交換もあれば、再分配もあるし、わたしたちが慣れ親しんでいる貨幣を用いた商品交換もあった。さまざまな経済のあり方が混合していたというのが実態であった。
「質的等価原理」にもとづく〈市場〉では社会の平準化・平等の原理がとても強く働いているので、一見ハッピーな感じに見える。しかしそこには、常に利得への動機や契機が内在している。この二重構造に自覚的でなければならない。
人類史においては、さまざまなボトムアップ式の〈政治〉にもとづき、利得への動機に突っ走ることなく、基本的には「質的等価原理」を保持したままに、トップダウン式の構造をもたない〈都市〉が形成されてきた可能性がある。わたしたちが人類史における〈都市〉を語るとき、こういった観点も必要なのではないか?
じっさいに、多様な〈都市〉を人類史において認めることができる。モヘンジョダロもその一つのパターンにすぎない。固定化された権力や暴力の構造をもたなかったインダス平原が、そうした構造をもつ外部社会と接続したタイミングであたらしく創られた〈都市〉だ。
自分たちとは異なる価値・原理をもった社会とつながる場合、直接に接続すると、さまざまな矛盾が生じてしまう。固定化された権力や暴力などが入ってきてしまうからだ。そこで異なる価値・原理をもった社会との間に、ボトムアップ式の〈政治〉としての価値転換をおこなうためのあらたな空間を想像・創造して、そこで接続するようにする。
そうすると、自分たちの伝統的な価値・原理は崩さずに「対話」が可能になる。そうした空間が〈バッファ〉としての〈都市〉である。現代都市を考える場合も、〈文明〉論を念頭に置きつつ、〈バッファ〉として語れるような〈都市〉のあり方を想像・創造するべきだと考えている。
パネラー:岡井 有佳 立命館大学理工学部教授
私の専門は都市計画で、フランスの都市計画も研究している。フランスには移民が多く、ときには暴動も発生して怖いイメージがあるかも知れないが、同化主義をとっているので、フランスで生まれるとフランス国籍がもらえるため、ルーツは移民かもしれないが彼らの子供たちは仏人である。フランスの社会住宅団地の研究をしていたとき、「移民はどれだけいるか」と質問したが、そういうデータは取れない。それをすること自体が差別につながると言われた。
なぜフランスは移民が多いかというと植民地政策をとってきたからで、当時フランスが植民地としていた国から多くの人がきたが、特にマグレブ三国のアルジェリア・チュニジア・モロッコからの人たちが割合としては多い。
今、外国人の割合はどれだけなのか。入国した際のデータがあるので、それを見ると移民全体としては増えている。ただ、私の印象としては、マグレブ三国も含め、問題と思われる、ならず者の可能性のある人たちに関しては、今は入国が非常に厳しくなっているので、肌感覚としては減っているのではないか。
どこの国の人が増えているのか。今はフランスだけでなく日本でも、グローバル化の中で様々な国の人たちが出入りしている。ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリア、日本など、移民の定義は外国人がフランスに住むことなので、日本人も含めて移民になる。
全体としては増加傾向にある。コロナ禍でいったん減って、その反動で2022年は非常に多くなった。また、その反動で2023年は初めて減少したが、全体の傾向としては増えている。注目すべきポイントとして高学歴の方が増えているというデータがあるが、暴動等で目にする移民が高学歴化しているかというと疑問である。
移民で仮に低所得者だと、日本でいう公営住宅的な社会住宅に住むことができ、手当ももらえる。子どもが5人いれば働くよりも手当をもらったほうが収入になるので、働くよりも子どもをたくさん産もうというような人もいる。
同化政策は良いところもあるが、フランス人で低所得者の人たちが不満を持つ状況がある。自分たちはこれだけ税金を払っているのに、なぜ外国人にお金が行くのか、と不服を抱くことになる。社会住宅団地の中で、移民の子どもが悪ふざけをしてそれがみつかり、警察に追いかけられ、逃げた子供が撃たれて死んでしまったケースがある。それが発端で暴動が発生する。そういうことが何年かおきに起きている。みんな心の奥底で不満を持っているという状況があるので、単純に同化意識をと言っても実際は難しい。
政教分離も古く、1905年からやっていて、同化政策をとる代わりに民族性や宗教性を出さないようにということで、例えば学校ではスカーフで髪を隠すような行為は禁じられている。その背景にはイスラム教の人たちが増えていて、政教分離を脅かされるのではといった恐怖心のもとで、宗教色を出すことに関しては厳しくなっている。
日本の場合、移民は少なくて、どちらかといえば隔離政策、同化ではなくて隔離していく。そこがフランスと日本の大きな違いである。
岡:ありがとうございました。私たち都市計画の人間は、「等床等価」や「等価交換」など資本主義的市場に基づいて都市計画を語ってきたが、そうでない質的価値を大事にしたいといつも思っている。
岡井先生の話では、国家があり、制度があり、政策がある中で、実態として移民がいるにもかかわらず同化しようと頑張るフランスの都市政策に対し、あくまでも日本は移民を「よそもの」と扱っている。
国家、同族意識があるから、外国人、「よそもの」という言葉があるのだが、広域流動システムを文明と考えたとき、トップダウンでないもう一つの都市の形について、小茄子川先生はどのようにお考えか?
小茄子川:これも『万物の黎明』に書いてあることだが、人間は「三つの原初的自由」をもっている。「移動する自由」「服従しない自由」「社会的関係を創造したり変化させたりする自由」だ。一つ目と二つ目の自由は、三つ目の自由を成立させるための自由。これは人間のもっとも基本的な条件だが、いまはとても見えにくくなっている。そうした社会を、なぜか勝手に人類がつくって、勝手にスタックしている、という見方もできる。
そのなかで不平等が問題になってきたときに、何をトップダウン式でやるかというと、不平等を解決するのではなくて、不平等を見えにくくする。これが政策である。ただの文句のように聞こえるかもしれないが、まさに現状はそのとおりだ。
人類史をみると、そこには人間のさまざまな自覚的選択があったことが分かる。南メソポタミアの都市も人類の一つの選択であり、インダス〈文明〉の〈都市〉も一つの選択。古代文明における〈都市〉と現代都市を比較する場合に、即効性のある「薬」をわたしたち側から提供することは難しいが、さまざまな選択の可能性という人類の想像力・創造力、それを今日のディスカッションで少しでもお伝えできればと考えている。
吉野:小泉先生の都市の定義と小茄子川先生のもう一つの文明史から捉えたバッファとしての都市、岡井先生のフランスの国家制度と都市の現実。それぞれ最先端の知見であるがこの場ではどんな結末を迎えるのか、読めない所がある。私としては小泉先生の都市の成立実態に関しては間違ってはいないと思う。ただ、この10年、20年の社会の大変化を考えると5000年に1回というと語弊があるかもしれないが、とてつもない大きな転換期に来ているのではないかという素朴な感触がある。
今の人間社会、AIによる革新がどんな文明社会になっていくのか、先の見えない世界情勢をひしひしと感じている。5000年前と今を比較しようという発想は数年前にはあり得なかった。そういうことを議論して、こうして人が集まってくれること自体、何かがあるのではという気がしている。
古代においてメソポタミアとインダスは盛んに交易している。ウルクやウルはムギしかとれないところで、すべての物資は交易によって賄っていた。インダスもかなりのものを送っている。インダスからメソポタミアに交易品を持っていった、その際の量的な価値、質的な価値、その間にあるバッファで交易や流通を担う人たち、つまり中間商人はどうであったのか。バッファを越えてメソポタミアから直接インダスに何をもたらしたのか。あるいはインダスから直接バッファにおいて、良い意味でも悪い意味でも、そこで価値の転換、価値観の調整をしたのか。
写真2 パネルディスカッション
小茄子川:〈貨幣〉も現在の貨幣とは異なる。紙幣や硬貨などの国家が定めた貨幣ではなく、その内でさまざまな価値が競合する〈貨幣〉があった。メソポタミア文明で使われていた〈貨幣〉とインダス〈文明〉の〈貨幣〉も同じものではない。
当時の交易のあり方については、わたしの先生や先輩の書いた概説書では、インダス〈文明〉が栄えたのはメソポタミア文明との交易のおかげである、とされている。
ところが、インダス平原からメソポタミア文明由来の遺物がどれくらい出ているかと見てみると、ほとんど出ていない。〈都市〉からすこし出土するのみ。〈都市〉を通過し、伝統的地域社会に入ることはない。
なぜ、このようなことが起きたのか? メソポタミア文明と直接に接続していた〈都市〉が、南メソポタミアの社会とインダス平原の伝統的地域社会の間にはさまるかたちで、異なる価値の転換や拒絶のシステムとして機能していたものと推察される。
この頃、南メソポタミアは激しく戦争をしていた時期なので、戦争の痕跡のないインダス平原とは〈状況〉がまったく異なる。それでも直接的な接続を強化し続けていたとしたら、何が起きた可能性があるだろうか? 2000キロも離れていたので直接に攻め入られることはなくても、インダス平原は徐々にメソポタミア化していたと考えられる。
しかしながら、接続した後もインダス平原には、固定化した権力や暴力の構造は生じなかった。それはなぜか? 南メソポタミアと伝統地域社会の「あいだ」に〈バッファ〉としての〈都市〉をつくり、そこで外部社会との接続をうまくコントロールしていたからだ。
よそ者も来ていたかもしれないが、よそ者が入れるのは〈都市〉まで。異なる価値にもとづく経済のあり方をうまくコントロールするための〈バッファ〉としての古代〈都市〉もあったのではないか? よそ者を選択的に拒絶するような構造。多様な人類史には、そのような〈都市〉があってもよい。
岡井:よそ者ではない人もいる。その違いは何で感じていたのか。
小茄子川:インダス平原に住んでいた人びとが〈都市〉や〈都市〉的な物質文化をつくるわけだが、インダス平原に存在した既存の伝統的地域社会の特定要素をミックスすることで、それらを創りだしている。
それらとはまったく異なるアイテムをもった人びとが西側から来た場合、かれらとの違いを認識することは容易であっただろう。モース的文明のなかの異なる〈文明〉の形態に属していた人びとの出会いである。
岡井:違う文明。その違いを国家という言葉でいう人もいれば、また違う言葉もあって、様々な文明があった。
岡:具体的に、今現在、どこにバッファがあったと考えられているのか。
図5 古代インダス文明のひろがり
小茄子川:インダス文明の〈都市〉は6つほどしかない。モヘンジョダロ、ハラッパー、カーリーバンガン、ドーラーヴィーラーなど。図の赤色ドットはインダス〈文明〉の集落、青色の枠は集落(人口)の集中を示している。つまりインダス平原の各地には、地域社会が安定的に存在していたことが分かる。
図5からは、〈都市〉が各地域社会の接触領域に位置していることも分かる。伝統的な地域社会のゾーンに入る前には、〈都市〉を通過しなければならないような立地状況だ。
南メソポタミアとの接続においても、モヘンジョダロに接続する場合もあれば、ドーラーヴィーラーに接続する場合もあるが、伝統的地域社会からはそうした接続に由来する遺物は一切出土しない。こうした考古学的証拠からも、〈都市〉が〈バッファ〉としてつくられていることが推察される。〈都市〉の分布傾向や、出土遺物のあり方もこの解釈を擁護するものである。
岡:それでは会場からの質問をお受けします。
質問者:進歩史観は主流ではないのか、進歩史観に沿わないものが多いといえるのか。
小茄子川:「進歩史観」は、ほんとうに根深い。「進歩史観」的に、社会が右肩上がりに発展しているようにみえる地域もある。ただし当たり前であるが、すべての地域が同じというわけではない。「進歩史観」にもとづいた既存の理解では説明できないような、多様な社会のあり方がどんどん報告されてきている。
たとえば先に述べたように、関雄二先生が研究しているアンデス文明では、余剰生産が蓄積されるよりも以前に、神殿がつくられている。既存の理解では、まず余剰生産があって、神殿がつくられるという説明がなされてきたが、順番が逆になっている。人類史においては、このような事例がたくさんある。
「進歩史観」は根深いので、意識して自覚的に、もっと多様な観点で、人類史をみていかなければならない。
吉野:よそ者や借用の拒絶、命令に従わない。もちろんあると思うが、結果的には、都市空間は、メソポタミアの話でいえば、よそ者が来たときに特定の区画にその人たちを入れる。というルールがあったのではないか。
岡井:都市計画は、狭いエリアに人がたくさん来て、みんなが勝手なことをすると快適に暮らせなくて、摩擦や問題が起こるのでルールをつくり、より効率的に、快適に暮らせることを目的としている。今日の話を聞いていると、いかにコントロールしやすくするか。ルールをつくらなくても、自主的にというか、摩擦やトラブルのない都市・社会が理想だと思うが、どうすればそれが実現できるのか。
今は効率性を重視する。今の学生は何でもAIを使い、経験を身につけない。そういう環境で育った学生は、より効率を求めて、豊かさが生まれると思っているが、そうではない世の中に進んでいる。どうすれば止めることができるのか。
小茄子川:今日のメインテーマである都市とよそ者の問題も、基本的には「都市をトップダウン式にコントロールする」という問いの立て方を前提にしていると思う。
〈都市〉は多様性をもっていて、多様性があるから発展する。これは皆さんのイメージとおりだと思う。たとえばニューヨークとデトロイトを比較すると、デトロイトは自動車ばかりの都市だったから衰退したという見方もできるように。
よそ者を考えるときも、都市のこれからを考えるときも、効率性や合理性もいいが、トップダウン式ではなく、ボトムアップ式の問いの立て方で議論してみると何かあたらしい視点が見えてくるのではないか?
いずれにしても、〈都市〉の未来はポジティブに考えるべきだ。ネガティブにやったとて何もでてこない。ポジティブ思考でいてこそ、なにかあたらしいものが生まれてくるのではないか? 人類はそういう想像力・創造力をもっているからこそ、わたしたちは人類史のなかに、いろんなタイプの〈都市〉を発見することができるのだと思う。
司会:では、ここでコメンテーターをお願いしている多田 一也様、一言お願いします。
多田:大阪府戦略調整局の多田と申します。普段の仕事は大阪を国際金融都市にしていくための政策面と、ハードなインフラとしては空港政策を担当している。文明論は難しいと感じながらも、自分の仕事を振り返ってみると、表面的な常識だけで物事を進めていくだけではなく本質的かつ多様な視野をもって考えていくべきだと思った次第である。
政策の方向性としては、大阪をよりよくするとともに関西全体に貢献する。そういう思想でやっている。先週末に副首都法が成立した。公的な仕組みとしてできたので、個々に相談させていただいたり、お話を聞かせていただいたりし、少しでも具体化していければと思っている。
司会:ありがとうございました。続いて柴山 敬様、お願いします。
柴山:大阪公立大学本部事務機構企画総括部の柴山と申します。インダスでは集落が点在し、その中で移動の自由がある。とはいえ、その当時の集落の距離を考えると移動はハードルが高い。情報の平準化はその当時からあったと思う。1つの集落の中でも、いろんな考えを持つ人が生まれていたと思われるが、移動はハードルが高い。それが都市間の交流を育んだのか、拒絶という形で独自の文化が生まれたのか。そのあたりはどうか。
小茄子川:たとえば、各〈都市〉は、それぞれに異なる特産物をもっていた。それぞれの都市が独自の個性をもっている。さらに都市間の距離も近くはない。モヘンジョダロとハラッパーでは、500キロくらい離れている。文字にしても印章にしても、基本的には〈都市〉からしか出土しない。〈都市〉間ネットワークでは、それらを駆使して、各地域の特産物などを回していたのだろう。
インダス平原の地域社会は、とても安定した〈状況〉のもとに展開できていたので、各地域社会の独自性を保持したままに、そこで暮らすことが一番かしこい選択であっただろう。いっぽう〈都市〉では、情報の平準化がある程度すすんだはずだ。文字や印章の使用など、〈都市〉間ネットワークの中で同じような物質文化を共有するようになる。
インダス平原に展開した地域社会は、〈都市〉ができても、〈都市〉ができる前からその地に伝統的に存在していた社会のあり方を保持し続けた。インダス〈文明〉は、そのような特徴をもつ古代〈文明〉社会であった。つまり〈都市〉間ネットワークと在地の伝統的地域社会では情報の平準化のあり方も異なる、ということだ。
司会:ありがとうございました。もうひと方、金部耕平様コメントをいただきたい。
金部:阪急阪神不動産開発事業本部都市マネジメント事業部の金部と申します。当会場のグラングリーン大阪は2025年に開業、行政の方針のもと、全国的にもめずらしい都市公園を軸とした大規模複合開発である。大阪駅という西日本最大のターミナルに接した開発でありながら、都市機能以上に余白の部分が魅力である。都市のデザインに求められている一つの理想を実現したものと思うが、今後ともこれを継続、充実させていく都市マネジメントを推進していきたいと考えている。また、海外企業やスタートアップなど国際的な機能の集積に優位な立地でもあり、国際金融関連事務所も立地している。レジデンスにおいては富裕層や高度人材層を受入れている。大阪に於いて、今後も先端的、能動的な都市デザインを実現していければと思った次第である。
司会:最後になりますが、ここで小泉先生、総括的なコメントをいただけますか。
小泉:気になったことがいくつかあった。まず、岡先生の「文明の違いをどう認識していたのか、よそ者か否か」という点。小茄子川先生が発表で示していたハンコがキーになるのではないか。写真に出てきたインダス式のハンコは四角い形で、メソポタミアは円筒印章と、形は違うが、身分証明書、IDのような形で、それぞれの出身者がハンコをぶら下げていた。お互いにそれを見れば、可視化される情報として、どこから来たのか、違いは見た目以上にわかっていたのだと思う。
それに関連して、岡井先生の「バッファはどこにあったのか」については、小茄子川先生の報告でインダス文明には4つの都市があった。集落の人口が集中しているところではないところに、モヘンジョダロやガンウェリーワーラーがある。いわゆる交易の結節点としての交易都市と位置づけてとらえていくと、いろんなことがわかるのではないかと思う。
岡井先生の「摩擦やトラブルのない都市はどうつくれるのか」をメソポタミアに落とし込むと、風土に根差した空間的な余裕をどうつくるかということ。メソポタミアは、毎年4月から5月にかけて雪解け水で洪水になり、とんでもない被害が毎年ある。だから、ノアの箱舟のような洪水伝説の元ネタが生まれてくる。そういう風土だからこそ都市をつくり、呉越同舟のように、価値観の違う人同士が協力しなければ生きていけない。こうした厳しい風土であったので、どうすれば空間をうまく住み分けられるか。その知恵が都市づくりに反映されたのだと思う。
コメンテーターの多田先生は、国際金融都市を大阪でつくるという話をされた。それをメソポタミアに広義になぞらえると、古代から交易が盛んであったが、メソポタミアの都市ができる過程で交易活動が本格的になり物々交換の証拠が見つかっている。5500年前から長距離交易をしていた物的な証拠が確認されている。当時は集落のド真ん中で面と向かって、対面の物々交換が行われていた。ところが、都市ができる段階になると、どこから誰がやってくるかわからないので、セキュリティを意識して城門の近くの広場に限定して交易、市が立つようになる。都市化段階と都市段階では交易や市の立つ場所が違ってくる。これは、セキュリティの維持と大きく関係している。
柴山先生のコメントでは移動を起こすハードルの問題。移動効率に関しては、メソポタミアでは、古くは船を使った水運、水上ルートが盛んで、7000年前からすでに船の存在が指摘されている。それが、よそ者が出てくる都市化後半段階になってくると陸上のルートが開発される。背景にあったのは、車輪の発明とロバの家畜化である。これはほぼ同時にされていて、ロバが引っ張る車によって物資が運ばれる。
それまでは船を使った河川や運河沿いの物流に限定されていたが、陸上ルートによって東西方向の非常に幅のある広域ネットワークができたので様々な物資、金やラピスラズリなどがメソポタミアに集中し、富の集中によって都市が出来上がった。こういうイメージでよいかと思う。
金部先生のデベロッパーの立場で公園を軸とした都市のデザイン。メソポタミアの都市を振り返ると、都市の内部にバッファ(空き地)がつくられていた。普段は動物の放し飼いの場所になっていたり、果樹園がつくられたりしているが、洪水や自然災害が起きたときには、動物たちを避難させる場所として使ったり、果樹園の中で男女が求愛行動をするといった記録も残っている。
使い道が自由な広場やバッファを抱え込むようにして都市が成り立っている。こういう図式でとらえると良いのではないか。
吉野:問題提起者として最後に一言。都市におけるよそ者の居住に関して、メソポタミアではいわゆる階層的に居住区に区分し配置する。というこれまでの都市計画で理解ができる、一方インダスでは空間的なイメージはあまり出来ないが、上からの計画的配置、隔離ではない文化的な背景があって居住の自由があったように思う。よそ者を、区画し配置すべきか混住・融合という形はあるのか。ならず者だけではなくて、中間層のよそ者に対する都市計画的な答え、これは今後もぜひ皆さんで考えていただきたい。高度人材も含めて、デベロッパーにもがんばっていただきたいし、都市政策、住宅政策も課題解決だけでなく未来を先取りする政策をやっていただきたいと願う。
司会:小泉先生、小茄子川先生、岡井先生、どうもありがとうございました。それでは、財団を代表して関西学院大学名誉教授の角野先生に閉会のご挨拶をいただきます。
角野:バッファとしての都市という考え方には納得させられるものがあった。一方で、交流の場としての都市もある。交流という機能とバッファという機能をどう両立させることができるのか。それはいったいどんなスペースで、どういう装置なのか考えさせられた。
それを考えている中で、中学生の頃に読んだ「マクスウェルの悪魔」という架空の悪魔の話を唐突に思い出した。19世紀の後半に熱力学の分野で提起されたもので、分子が右に行ったり左に行ったりするときに、分子の動きを調整できる悪魔がいれば、熱力学第二法則が否定するエントロピーの減少が可能というような話だったと思う。
交流の装置としての都市空間と、流れを制御するバッファとしての都市空間という2つの機能を両立させることが計画的に可能かどうか、面白いテーマである。
都市論を勉強してきた者にとっては、もう一度一から勉強し直さなければいけないと思った。時間の関係で難しかったが、このような場が専門領域を越えた自由なディスカッションができる場に育っていけばと思う。今後とも皆様のご支援をお願いして閉会の挨拶とさせていただく。
今日はどうもありがとうございました。
司会:これにて終了いたします。ご出演の皆様、ご参加いただいた皆様、本日はありがとうございました。
以上 (文責:事務局)