戦後80年の私と大阪 ―世界的大転換期の日本の未来に向けて―
戦後80年の私と大阪 ―世界的大転換期の日本の未来に向けて―
【プロフィール】
小林 哲也(こばやし てつや)
1943年大阪府生まれ。1968年早稲田大学政治経済学部卒業、同年近畿日本鉄道株式会社入社、2003年常務取締役就任、2004年大阪バファローズ代表取締役社長就任、2007年近畿日本鉄道株式会社代表取締役社長就任、2015年近鉄グループホールディングス株式会社が発足、代表取締役会長に就任、2024年会長退任、現職に就く。2016年大阪商工会議所副会頭、2018年関西経済連合会副会長を歴任。
話し手:小林哲也 近鉄グループホールディングス㈱ 取締役相談役
聞き手:吉野国夫 (一財)大阪地域振興調査会 常務理事
吉野:本日はありがとうございます。小林様には上町台地のまちづくりに関連して、長くお世話になってきました。特に、上町台地にご縁の深い聖徳太子1400年忌を記念するプロジェクトでは、四天王寺さんと共催した日独国際フォーラム(2022年)やコロナ禍にも関わらず、聖徳太子巡礼ルートを開発したりバスツアーをやった事を思い出します。その節は大変お世話になり感謝しています。本日は、小林様の個人的な生い立ちや、人間論、日本の課題などをご自由に語って頂きたいと思います。まずは幼少期の話をお聞かせ頂けますでしょうか。
―戦争と私の生活史―
小林:懐かしい話です。私が生まれたのは1943年、太平洋戦争の末期で、戦中の記憶はほとんどありません。父親が出征から帰還して戦後の厳しい時代をたっぷりと経験させてもらいました。
一番印象に残っているのは、大阪市の都心部の焼け野原を見に連れていかれ「戦争に負けたらこうなる、よく見ておけ」と言われたことです。その時、戦争に負けることの意味を強く心に刻みました。
吉野:それは忘れられない体験ですね、私も戦後っ子の端くれですがとても想像できません。
小林:そうですね。ただ、私自身は比較的恵まれていたと思います。両親の実家があった四国から新鮮な野菜や魚がたくさん届けられ、食べきれないので近所に配って喜ばれたほどでした。
一方で、父親は厳しい人でした。「嘘をつくな、卑怯・未練はするな、弱い者いじめはするな」と繰り返し言われ、守らないと鉄拳制裁。喧嘩はしても良いが「喧嘩する以上必ず勝て、負ける喧嘩はするな」と叩き込まれました。父親の厳しい躾は、今も自分の心の芯となっています。
吉野:学生時代はいかがでしたか。
小林:体が大きい方ではなかったので、中学・高校では剣道、大学では拳法をやっていました。練習に明け暮れましたが、おかげ様で心と体が鍛えらました。その経験が、今でも仕事の中で生きていると思います。
吉野:ご結婚は?
小林:見合いです。おふくろの強烈な勧めで仕方なく。1度目の見合いの後、仕事が忙しく1年間デートをせずにいたら、仲人が家に怒鳴り込んできて、直ぐにもう一度見合いとなった。親父が「いやなのか?」と聞くので「いやではない。」と言ったら、すぐ結納となり気が付いたら結婚していました。それが今の家内。流れの中で決まった感じですが、結果的にはそれでよかったと思っています。
吉野:近鉄への就職はどのようなきっかけだったのでしょうか。
小林:当時住んでいた親の家が近鉄学園前だったので馴染みのある会社でしたし、鉄道会社はいろんな事業をやっていたので、面白そうだなと。そういう理由でした。
吉野:入社後、特に印象に残っている経験は?
小林:入社5年目に配属された営業企画部にいた頃、運輸営業システム(券売機、自動改札機、特急券端末機、定期券発行機など)の導入に関わる機会がありました。サイバネティクス協議会で磁気券の規格化の議論を見聞きする中で「これは面白いな」と感じましてね。
特別に何かを狙ったというより、興味を持ったことを研究し企画書にまとめてみたという感覚ですが、それが結果的に担当役員の目にとまり中期経営計画に組み込まれました。
小林:そうですね。日頃からいろいろなことに興味を持っておくと、思いがけない形でつながることがあります。あとから振り返ると、それが一つの流れになっていることもありますね。
近鉄上本町駅の自動改札機
吉野:同感です。私は世界中を旅していますが、仕事の視察であってもその前後に必ず自由時間を入れ込むようにして無目的に歩くようにしてきました。その時に予想もしない良い発見があったり、アイデアが湧いたりしてくることがあります。これは普段から街並みや商店街に深く興味を持っていたからだと思います。
吉野:広告会社への出向も経験されていますね。
小林:はい。近鉄の子会社のメディアートに10年近く出向しました。「駅看板中心の会社を総合広告代理店にせよ」との命を受けたのですが、何をすれば良いかは誰も教えてくれない。上司からは「職場との関係作りが大事だ。給料の3カ月はすべて飲み代につかえ。」と言われ、5カ月家に給料を入れませんでした。妻には呆れられましたが、結果、会社に溶け込む事ができ、その後、様々な改革を進める事ができました。
吉野:その経験は大きかったですか。
小林:ええ。仕事は一人ではできませんので、人との関係があって初めて動くものだと感じました。その感覚は、その後もずっと変わっていません。
吉野:最近はアルハラという言葉がありますが、一方で上司とのコミュニケーションを求めているという話も耳にします。その精神は意外と現在でも生きているように感じます。欧米でも、往時は職場仲間やクライアントを自宅に招く文化がありましたが、日本では飲み歩きが文化なのかもしれませんね。
小林:そうですね。時代は変わりましたが、人と人との距離を縮めるという本質は、今も変わらないのではないかと思います。
メディアートにいた頃は、ひとつのプロジェクトが無事に終わった時など、部下たちを自宅に呼んで、みんなでどんちゃん騒ぎをしたこともありました。
家内にはずいぶん迷惑をかけたと思いますが、そうやって仕事をやり切った仲間と本音で語り合う時間の中で、信頼関係が生まれ、次の仕事への一体感も育まれていったように思います。
―戦後80年間、積み残してきた憲法と教育―
吉野:ところで、これからの日本を考えるうえで、戦後80年の総括が必要ではないか、との問題意識からお聞きしたいと思います。特にこの5年間は、世界的にもこれまでのステージが大きく転換している感触があり、大きなテーマではありますが、切実な問題だと思います。そのあたりについては、どのようにお考えでしょうか。
小林:戦後の日本は、経済面では大きく成功してきたと思います。ただ、その一方で、積み残してきた課題も少なくないと感じています。中でも憲法改正と戦後教育については、そろそろ正面から向き合う時期に来ているのではないでしょうか。
世界中で戦争がおき、日本を含む東アジアの情勢も緊迫しているのに、当事者である日本人に危機感が乏しい。いざとなればアメリカが守ってくれる。そのような空気が蔓延しているように感じます。
吉野:日本人は危機感が足りないと?
小林:はい。ウクライナへのロシア侵攻の事例を見ても明らかなように、国を守るためには、自分たちが主体となって戦わなければなりません。
私たちは、敗戦によって国民の自信が大きく揺らぐ中、GHQの占領下で作られた憲法を長年守ってきました。その事自体を単純に否定するつもりはありませんが、国民一人一人が、自分たちの国は自分たちが守るという意思を持たなければなりません。今の日本人には、自立自存の精神が欠けていると感じます。
吉野:今の米国・ロシアの戦争や中国の太平洋進出、国防予算の拡大を見ていると、生半可な外交では「されるがまま」になりかねない危うさを感じます。
一方で、日本では喫茶や食事の場で政治を語ることに、どこか場違いといった空気が世間を覆っているようにも思いますが、ドイツなどではむしろ逆の傾向が見られます。
高市総理の台湾発言を契機に、少しずつ空気が変わりつつあるようにも感じますが、憲法改正もようやく政治日程に上がろうとしている段階ではないでしょうか。
小林:自分たちで考えた憲法改正が今こそ必要だと思っています。「自国は自分たちが守る」という自立した国家観をこの激動の時代に何としても実現させる必要があります。その意味で憲法改正議論の加速に期待しています。
吉野:憲法もそうですが、日本人の精神的自立性の回復は大問題で、これの根本的な原因はどこにあるのでしょうか。
小林:私自身、最近の日本人を見ていると、「自分で考える」という意識が弱くなっているように感じます。この根本的な原因は戦後教育のあり方に尽きると思います。敗戦による価値観の転換の中でやむを得ない面もあったと思いますが、行き過ぎた自虐史観や平等主義が蔓延し、結果として、自主自立の精神が軽んじられてきたのではないでしょうか。また、かつては、家庭や地域で育まれてきた助け合いの精神や地域との共同意識が、学校教育に委ねられる中で、公共意識や当事者意識が弱まってきたように感じます。
加えて、政治や国際情勢に距離を置く姿勢が定着し、国際社会を自分事として捉える感覚も希薄になってきました。その背景には、吉田茂の時代以降、日米安保体制のもとで経済成長を優先し、安全保障をアメリカに依拠する枠組みが続いてきたこともあるのではないかと思います。
実際、2003年のイラク戦争の際にも、日本は資金面で大きく貢献しましたが、「小切手外交」と言われ世界からはあまり評価されませんでした。こうした経験も踏まえると、経済だけで存在感を示すことの限界も見えてきているように思います。
世界の構造が大きく変わる中で、従来の前提のままでは立ち行かなくなりつつあります。だからこそ、教育のあり方を根本的に見直し、「自分たちのことは自分たちで考える」という力を取り戻していくことが、これからの日本にとって重要ではないかと感じています。
吉野:日本ではこうした現実があまり実感されていないように感じます。実は、昨年11月から約1か月イラクとトルコの古代遺跡を訪問してきました。そこで見た現実のイラクは全土がインフラ整備の真っただ中の復興景気。中国の一帯一路プロジェクトの資金が大量に流れ、米国石油メジャーもしっかりと抑えている。都市間はミニバスで移動しましたが、各地で道路整備、土地開発による砂埃の中、石油の炎が点在していました。街は欧州からの観光客と中国人であふれる中、日本人は皆無。世界の動きの中で、日本の存在感が薄くなっているのではないかと感じました。
小林:こうした現実を見ると、日本は、これまでのようにアメリカの傘の下にいれば良いという前提は既に変わりつつあると思います。国際環境が歴史的大転換期にあるということを認識し、自ら考えて自立的に進んでいく必要があると思います。
ー上町台地の魅力と可能性ー
大阪歴史博物館から見た難波宮の眺望
上町台地の緑地分布図(大阪市HOPEゾーン)
吉野:最後に話題を上町台地に移し、そのポテンシャルや将来性についてお聞きします。
小林:上町台地は、近鉄グループにとって発祥の地と言える場所です。現在では私鉄最大の営業キロ数を持ち、グループ会社も253社に広がっていますが、その源流は上本町と奈良を結ぶ鉄道にあります。
当社はこの上町台地に育てられ、ここが企業形成の原点となってきました。大阪という都市も、もともとは上町台地を基盤に発展してきた土地であり、地盤の強さとともに、歴史的にも重要な意味を持つ地域です。仁徳天皇の高津宮や難波宮が置かれ、難波津を通じて海外文化を受け入れてきたほか、四天王寺をはじめ多くの寺社が集まっています。
こうした歴史と文化を持つエリアであることは大きな魅力と考えています。
吉野:意外と知られていないのが、大規模公園の集積です。都心でありながら、大阪城公園や天王寺公園があり、夕陽丘七坂や寺町の斜面緑地など、緑のボリュームは大阪随一と言えるのではないでしょうか。
さらに、北には大川、西には東横堀川、かつては東に猫間川、南には河堀口があり、まさに水に囲まれた土地でもあります。四天王寺の亀井や夕陽丘七名水、空堀の井戸の集積など、良質な水が湧き出る、水都としての側面も持っているエリアです。
四天王寺七夕の夕景
小林:上町台地は、緑が多いだけでなく、多くの学校も集まっており、大阪の都市構造の中でも重要なエリアだと思います。大阪は多極的な都市として発展していくべきで、キタがビジネス、ミナミがにぎわいの拠点とすれば、阿倍野・天王寺は「暮らし」を支える都市核になっていくのではないでしょうか。天王寺から上本町にかけての南北軸と、鶴橋方面への東西軸が交わる結節点でもあり、立地としての強みもあると感じています。
吉野:大阪市の都市開発では、大阪城周辺エリアの整備が進み、「ポストうめきた」としての位置付けも意識されています。大阪公立大学森之宮キャンパスをはじめ、大阪女学院大学や高津高校、星光学院高校、大手前高校などの教育機関が集積しているほか、大阪国際交流センターや放送大学の拠点もあります。さらに、大阪歴史博物館や天王寺美術館、NHK、読売テレビ、テレビ大阪といった文化・メディア施設も立地しており、大阪都心の文教エリアとして非常に恵まれた環境にあると言えます。
小林:天王寺は阿倍野の再開発が一通り進み、あべのハルカスもおかげさまで賑わいが定着してきました。街のイメージも大きく変わったと感じています。
一方で、上本町については、今後再整備が予定されているものの、現状ではやや孤立している印象があります。今後、天王寺駅北側エリアや鶴橋の再開発が進めば、そうした拠点とのつながりの中で、上本町の位置付けも変わってくる可能性があるのではないでしょうか。あの一帯は、歩いて回遊していただくには適したエリアだと思います。
また、鉄道会社として見れば、上町台地は沿線の都心ターミナルとしての役割を担う重要な拠点です。ここに沿線の方々を呼び込み、そこから伊勢や大和、吉野といった沿線各地へとつなげていく。インバウンドを含めた観光にとどまらず、長期滞在、さらには移住といった広がりも視野に入れながら、沿線との関係性を強化していく仕組みが必要だと感じています。
吉野:私たちはいま、世界の枠組みそのものが再編されるような時代に直面していると感じています。戦後80年の延長ではなく、自主自立という視点を取り戻し、経済に加えて防衛や外交も含めた国家運営へと転換していく必要があるのではないでしょうか。
小林:私は、戦後の日本は経済成長を最優先に走り続ける中で、いつの間にか価値判断の基準がお金や効率に偏りすぎてきた面があるのではないかと感じています。もちろん経済は大事です。しかし、それだけでは国は成り立ちません。
これからの時代は、地域や企業が持続的に発展していくためにも、経済だけでなく、その国が持つ文化や歴史、さらには安全保障といった世界との向き合い方も含め、もっと総合的な視点で議論していく必要があるのではないでしょうか。
吉野:本日の議論を踏まえると、上町台地の未来も、そうした時代の変化の中で考えていく必要があるのではないかと思います。古代難波津以来の歴史や文化を大切にしながら、多様な人々が訪れ、暮らす地域として、これからのまちづくりを進めていく。その際には、拡大成長だけに依らず、変化に柔軟に対応しながら、30年、50年といった長い時間軸で地域の皆さまとともに姿を描いていくことが重要だと感じました。
本日は大変ありがとうございました。
了 文責事務局
後記
小林哲也さんとは、30年以上にわたるご縁があります。1994年、私がダン計画研究所の所長を務めていた頃、会社設立20周年記念事業として「上町台地の魅力発見セミナー」を開催しましたが、その企画会議にご参加いただいたのが最初でした。当時の肩書は鉄道事業局部長でした。
以来、上町台地という共通のテーマを通じて、折に触れてさまざまなお話を伺ってきました。今回のインタビューでも、そうした長年のご縁と気安さから、時に少し踏み込んだことまで率直にお聞きさせていただきました。
会長職や関西経済連合会での重責を退かれた今だからこそ、一人の経営者として、また一人の日本人としての率直なお気持ちに触れさせていただけたように感じています。
なお、このインタビューの翌日、米軍によるイラン攻撃が始まりました。